宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

衆院選を総括する新聞記事から

 衆議院選挙が終わり、色々総括されています。東京新聞の25日、26日の「誤算の行方」は面白く読みました。記事は、民進党合流組の一部を「排除する」という発言を引き出したフリー記者の質問を、小池さんが避けた話から始まっていました。

 この「排除」、実は都議選のときにすでに始まっていた。「都民ファ―ストの会」の選挙支援は、民進党離党が条件で、リベラル色の強い一部労組との関係も断ち切らせていた。ただ、それは小池さんの側近や民進系会派の幹部が水面下で手配し、小池さんはおぜん立てができたところで登場。表舞台で排他性が際立つことを避けられた。しかし、今回の選挙では時間がなく、彼女がすべてを一人で担った結果、「排除」という表現が引き出され、小池劇場の失墜が始まった。厳しい状況の小池さんに対し、前滋賀県知事の嘉田由紀子さんが、「私の状況とよく似ている」と自分を重ねる。そして、「(再起できるかどうかは)小池さんが都政にどう向き合うか次第だ」と。

 今日の東京新聞「論壇時評」で中島岳志さんが、むしろ若い世代が 共産党を保守的な政党とみなしていることの方が、正鵠を得ているように思えると主張していました。中島さんの主張に沿いつつ、私なりに補足しておきたいと思います。中島さんは、小池百合子代表は希望の党の立場を「寛容な改革保守」と言い、立憲民主党枝野幸男代表は「リベラル保守」と言ったことから、そもそも保守とは何かと問います。「保守」という立場は、18世紀のイギリスの政治家エドマンド・バーク(1729-1797)の『フランス革命についての省察』(1790年)に端を発します。この書は、バークを慕うフランス人青年のフランス革命(1789年)への献身を伝える手紙への返信として書かれたものが骨子となっています。フランス革命批判の書で、近代主義者の理性による理想社会実現、啓蒙の実現への批判の立場と言えます。

 確かに、イギリス経験主義の立場は、極端な理性主義に批判的ですし、慣習・伝統・世襲制度・私有財産権を擁護します。功利主義の創設者ジェレミー・ベンサム(1748-1832)もフランス革命を批判しています。そう言えば、『炎のランナー』(1981年)を思い出しました。1919年のケンブリッジ大学を舞台に、実在の二人のランナーを描いた映画です。一人はユダヤ人のハロルド・エイブラムスで、彼は走ることで栄光を勝ち取り、真のイギリス人として認められたいと思っています。もう一人はスコットランド宣教師のエリック・リデル。彼は神の恩寵を示すために走ります。私の印象に残っているのは、ケンブリッジの教授同士が、ハロルドに対しその能力を認めながらも、ユダヤ人であることへの、シニカルな評価を下している場面でした。いかにもイギリス的だなあと、感じたのを覚えています。差別意識を隠すことなく、かと言って全面排除するわけでもない。

 さて、中島さんの「時評」に戻ると、安倍首相は、急進的な「レジームチェンジ」を盛んに言います。保守の考え方の起源からすると、安倍政権は保守とは言い難い感じですし、小池さんの「リセット」も保守とは言い難い。若者は「極端な変化よりも、庶民の生活の安定を訴える」共産党の主張の中に、歴史的に構成されてきた社会基盤を保護しようとする、「守る」ことに力点が置かれている姿勢を見て、「保守的」と判断するのだろう、と言うのです。

 さらに、西部邁さんは安倍政権を「真の保守」からの逸脱とみなしているということが紹介されていました。その最大の根拠は、安倍内閣が「米国べったり」の政策を推進していることにあります。西部さんによれば、米国は歴史的経験知の蓄積を欠いているため、本質的な保守思想が共有されていない。国家の基調が「古いものは悪で、新しいものは良いもの」というジャコバン的考えに近い。しかし冷戦体制下で、米国側につくのが保守で、ソ連側につくのが革新という政治の構図が自明視され、親米が保守と同義に受け取られたと言うのです。

 ネオ・リべ(新自由主義)の持つ問題性は、日本人の持つ競争を忌避したい心根や世間に生きるという精神風土からも、捉え直される必要があります。「リセット」でなく、「出直す」という言葉の方がしっくりくる、という主張も誰かが書いていました。常識も共通感覚も英語では、コモン・センスです。常識の底にあるのは、おそらく感覚的なものだと思います。私たちの時代の常識を、見つめ直すときなのかもしれません。

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