宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケア責任について

 超大型台風21号はまさに衆院選を狙ったかのように、22日、日本列島に近づき、23日未明に静岡県に上陸し、関東地方を通過して、午後3時に北海道の東海上熱帯低気圧に変わりました。午後からは晴れ間も出て、やっと長雨から解放された、😥という気持ち。

 さて先日、利用者さんが廊下を散歩中に、カートを廊下の曲がり角に引っ掛けて膝をついてしまいました。その膝を以前骨折していたので、心配したご家族が病院でレントゲンを撮ってもらい、何んともなかったとの連絡を受けました。こういう事例は、インシデント報告書として挙げます。ケア責任とは何かを考えました。

 責任とは通常、ある自発的行為に対してその行為者が引き受ける意識や責務、制裁のことです。ですから、自己決定には自己責任が伴うと言われます。しかし、本来、レスポンシビリティとしての責任は、2列に向き合った聖歌隊が交互に歌う「応答性」に由来すると言われます。それが、18世紀の産業革命と契約の隆盛の中で、道徳用語として形成されました。今道友信さんは『エコエティカ』の中で、応答性としての責任の形成について次のように述べています。

 「相互の取り決めによる契約社会が出来上がってきたときに、目前に物がないのに、契約の成立のためにどうしてもなくてはならない基本的な心構えとして、お互いに交わす言葉に応じて約束通りに動くということ、応じ合う行為が大切だという考えが出てきました」(106-107)

 そして、このような意味の責任という言葉は、J・S・ミルの本にあるが、彼の造語ではなく、おそらく共同意識としていつの間にか作られていったのだろうとも述べられています。責任が自己決定に伴う自己責任という側面から、他者への応答としての側面が強調されるようになるとき、他者の権利を支える義務の問題、援助の問題を考えることにつながっていきます。ケア責任の問題は、この視点から考える必要があります。

 ハンス・ヨナスは自己決定から責任が生じる自己責任と区別して、滅びゆく「他者」への責任を言います。不確実で滅び行くはかなさを持つ存在(人間を含めすべての存在)が、紛れもなく存在していることを通して、責任の感情を動かす。なにものかが存在しなければならず、そして人間は責任能力を持っている。責任能力を持つことが、現実に責任を果たしているかどうかにかかわりなく、責任を持っていることを意味している、と言うのです。その典型としてヨナスが挙げているのが、親の子どもへの責任と政治家の責任です。

 ヨナスは、科学技術がもたらした威力が、「人間自身の自然」をも含め、自然破壊を推し進めることへの強い危機感から、自然の傷つきやすさという次元への配慮の必要性を訴えて、『責任という原理』を著しました。彼がこの著書で試みたことは、自らの生きる基盤を葬りかねない事態への人間の責務が、緊急の課題になっているという問題意識でした。そこから責任という原理が、形而上学のレベルまで深められなければならないという視点から、考察がなされました。

 ではケア責任はどういう視点から考えたらいいのでしょうか。ケア責任の根拠は、やはり、滅びゆく他者(人間だけでなく)への責任の感情に由来する、と言えるかもしれません。ただし、作品へのケアをも含めてケア責任を考えるとき、そこには不死なるものへの情熱があると言えるのではないでしょうか。これに対して、滅びゆく他者への責任は、何に由来するのか。

 私は、リチャード・ローティが語っている、残酷さを避けるというリベラルの要求を、挙げたいと思います。このリベラルの要求は、私たちはみな傷つきやすく苦しみを受けやすい存在である点で平等なのであり、それゆえ残酷さを減らさなければならない、ということを意味します。ローティは、人間という存在の内部にある、話される言語とは全く独立に尊重と保護に値する何かを、非言語的能力である苦痛を感じる能力であると言います。

 もう一つ、ケア責任を担うのは誰かという問題があります。政治の責任について、小泉進次郎氏が、都市からだけでもなく地方からだけでもなく、それらを俯瞰する視点から考えなければいけない、というような演説をしたと今日のワイドショーで語られていました。しかし、ケア責任に関しては、人間が関係性の中で生きていることを前提に考える必要があります。アフリカで飢えている子どもたちへの関心は必要ですが、その子どもたちへのケア責任を、今、ここ(日本のある地域)で生きている私たちが負っているのかということです。ケア責任は他人のうちで完結する必要があります。ネル・ノディングズは「私たちは、完結の可能性を吟味することで、責務を制限するのである」と言います。自らのケア能力への現実的把握が必要になるということです。それは何を意味するか。個々のケアは、それぞれのケア関係の中で完結しなければいけないとして、それだけでいいのでしょうか。

 私は、ケアの責務は「連帯」しなければいけないと考えています。残酷さを避けるというリベラルの要求を実現してゆくため、ケアの責務を「連帯」によって果たすということです。具体的な個々のケアリングは、完結する環をなすとして、それらの環が繋がって伸びてゆくイメージです。そして、俯瞰する目にあたるものは何なのか。それが、「誰も傷つけられてはならない」なのかどうか、考えています。

h-miya@concerto.plala.or.jp