宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

コールバーグの道徳性の発達段階論を検討する

 コールバーグの道徳的認識の発達段階の設定は面白いと思いますが、そこには混乱があるような気がしています。ギリガンが指摘したように、別の在り方を混在させている気がします。私は、第2段階から第3段階を経るのでなく、第4段階、第5段階に行くリニアと第2段階から第3段階、そして別の展開があると思います。第6段階は両方の系列に関わっている気がします。第2段階から慣習レベルの第4段階の「決まりは決まり」系列の展開をすると、第5段階の社会契約的法律志向が発展理念として受け入れやすい。ただし、第5段階は建前としても掲げられます。

 ここでもう一つの問題が指摘できます。それは、道徳の発達について哲学的に考えることと心理学的に考えることとを統合しようとする点です。取り組みとしては評価しますが、心の発達と道徳の在るべき姿への論理的展開とが平行関係で捉えられて、心の発達の段階設定でも到達目標と掲げられることは、それほど自明なことだろうかという疑問です。

 コールバーグは、発達心理学において発達段階を設定し、それが文化の違いや性差を超えて設定可能であるという前提から出発します。そして、そのより高い段階への移行(分化と統合という基準に基づく発達)が見られるとしますが、その望ましさを心理学の中だけで証明することはできません。望ましさは価値に関わる問題だからです。

 この価値と事実の関係をコールバーグは平行関係であると言います。すなわち「道徳性の発達の方向」と道徳哲学における「適切性の規準」は導き合いの関係ではありませんが、平行関係にあるということです。道徳哲学における「適切性の基準」は道徳的規則の持つべき性質として次のように整理されます。①普遍化可能性の基準と②指令性(個人的な好みや欲求を超えた命令の性質、「べき」)です。これは人間一般に当てはまる理性(真偽・善悪を見分ける力)の在り方を示すものです。

 道徳性の発達は、発達心理学における基準では分化(たとえば鯨を食べる人間は悪いので殺されても仕方ない、という動物の生命への自然的共感反応を示した子が、人間の生命の価値と動物の生命の価値を区別するようになる)と統合(人間の生命価値と動物の生命価値を質的差異があるものとして位置づけ直す)の度合いの進展ですが、それはまた倫理学における適切性の基準をより十分に満たすような道徳判断が可能になる過程でもある、とコールバーグは言うのです。つまり、道徳性の発達と道徳哲学における適切性の基準が平行関係にあるという前提から出発していますが、道徳哲学の規準は建前としても受け取ることが可能なものです。世の大人がよくやってますよね。

 コールバーグは認知・構造的特質を道徳性発達の中核に置きますが、道徳判断は、単に論理的、技術的思考の意味における知能が、道徳的状況や道徳問題に応用されたものではないと言っています。そして、次のような検証不可能な仮説が含まれていることも言われています。すなわち道徳的原理を発達させるには、その前に道徳性の全段階を経過しなければならないだろうという仮説です。もしこれが事実でないとすれば、道徳の分野における普遍的連続性を説明することは困難になると考えられます。

 成熟した道徳判断の妥当性(高い段階は低い段階よりも適切である)を保証する基準は、真実性の価値や有効性といった基準より、もっと一般的な構造的基準に基づいています。この一般的な基準は、発達理論において、あらゆる成熟した構造を規定すると考えられている形式的な基準です。それは分化と統合の増進という基準です。発達は認知的葛藤や認知的不安状態(たとえば親子関係で求められている行動と、友人関係で求められている行動が異なっているというような状態)を「原動力」にした道徳的認知構造内の再組織化という過程をとります。前の段階の矛盾の解消によって道徳性は発達を繰り返すわけですから、当然段階の飛び越しはありえないのです。そして発達においてより高い段階が、包括性を持つことはいえると思います。

 しかしこの発達心理学のアイディアと、道徳哲学における適切性の基準は本当に平行関係を持つのでしょうか。カントからヘアーにいたる形式主義哲学者たちが、真の道徳判断ないし適切な道徳判断の特徴と考えてきた形式的基準は、このような発達の形式的基準(分化と統合)と一致するにしろ、哲学における基準の導出は純粋に論理性の次元でのことではないでしょうか。この疑問は、彼が発達の最終段階とその結果の道徳判断の基準を「正義」――後に正義と慈愛に変更されていますが――においていることへの疑問でもあります。

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