宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

実践か哲学か

 「~とは何か」は物事の本質を問う、哲学的問い、思弁的問いの典型と言えます。これに対してフロネーシス(思慮)は、状況に即した知(実践の知)を生みます。実践を目指すのか本質を問うのか、どちらが重要? どちらも、と言ってしまえばそこで終わってしまいます。実践に役立つ知とはどういうものか。本質を問う知とはどのようなものか。実践知と言うと、技術的知識や常識のことでしょうか。本質を問う知といえば、哲学の中でも形而上学でしょう。

  アリストテレスのフロネーシス(賢慮・思慮)は「単に一つの能力ではなく、すでに一定の形をとった慣習的共同存在」(ガダマー『真理と方法 Ⅰ』30-31頁)と言われるようなものであって、常識としてのコモン・センスの源流とも言われます。では、アリストテレスにおいて、感覚の統合形態としての共通感覚と、常識に通じるフロネーシスはどのような関係を持っていたのでしょうか。

 ハンナ・アレントは『過去と未来の間』の「文化の危機」において、この関係について次のように述べています。アリストテレスはフロネーシスを洞察力と呼んで、哲学者の知恵から区別している。フロネーシスは政治家の第一の徳であり卓越である。「判断する洞察力と思弁的な思考の違いは、前者が私たちが通常共通感覚と呼ぶものに根差すのに対し、後者が絶えずそれを超え出るところにある」と。フロネーシスは共通感覚をベースに働いて、常識につながるわけです。

 ところでフロネーシスは実践知につながりますが、では思弁的思考との関係はどうなっているのでしょうか。思弁的思考の究極である観想とは、観ることそのもので、実践より上位に置かれています。しかし、徳を身につけること(ヘクシス)は最高善であって、幸福そのものであり、「よく生きること」と同じです。徳は実践でもあるわけですから、となると観想する状態よりも、実践知が身に付いている状態の方が上に来るのではないでしょうか。

 ソクラテスプラトンでは、よく生きることとよく知ることは同じでした。アリストテレスは、知っているだけでは実践できない、身に付いていないと本物の徳の実践ではなく、よく生きるとはいえないと言いました。身に付いている状態は、しかしながら、「それは何か」を知る行為よりも時間がかかるわけです。アリストテレスは、思慮の特性をただ普遍的なものを知るだけでなく、個別的なものをも知ることと結びつけていました。それゆえ若くして知者となる者はあっても、若くして思慮ある者となる者はないと言うわけです。状況に即した知とは、常識と関わっています。もろもろの常識は古びて硬化することもあります。常識はその意味で、いつでも状況に即した知とは言えませんが、偉大なる常識人と言われる人(希少)は、その境地を(しかるべき時に、しかるべき事柄について、しかるべき人に対し、しかるべき目的のために、しかるべきやり方で)生きる人とも言えます。

 アリストテレスは、思弁的思考のうち、形而上学的観想の知を求めることが最高善としての幸福だと考えていました。観想とは、永遠なるものを観ることにかかわる経験であり、マルクスニーチェヒエラルキーの順位を転倒するまで、西洋の哲学体系の最高位に位置していました。しかしだからと言って、アリストテレスにあって、実践の知恵(思慮)への配慮がなおざりにされたり、下位に位置付けられることで徳ある生活が廃れることを意味したとは考えにくいと、山口義久さんは『アリストテレス入門』(ちくま新書)の中で述べています。アリストテレスは、観想と実践の関係を明確に論じているとは言えないようですが。

 古代ギシリア以来中世まで支配した永遠なるものへの哲学者の経験は、アレントに言わせると、「人間事象の外部にのみ、そして人間の多数性の外部にのみ起こりうること」(『人間の条件』35頁)です。永遠なるものの経験は、人々の間にあることをやめることと同じであり、一種の死であると。それは、人間の活動的生活と政治的生活の源泉であり中核であった、不死への努力を忘却させたと言うのです。不死への努力とは、「死すべきものの任務と偉大さは、無限の中にあって住家(すみか)に値するものーー仕事、偉業、言葉ーーを生み出す能力」(34頁要約)を発揮するということ。つまり、人間的偉大さへの探求の努力のことでしょう。

 アレントは実践か観想かという問い方ではなく、不死対永遠という図式で人間の活動的生活を考察しています。思弁的思考(哲学)は「永遠」に魅入られて観想になり、人間的活動を「不死」の下に探求することを忘れてしまった、と言っていると思います。

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