宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

あきらめないこと

 茨城有権者の会で、「あきらめないこと」という話が出たことは書きました。以前に見たドキュメンタリー番組『植物人間からの生還ーーあなたの声が聞きたい』(NHK1992年)でも、看護婦長紙屋克子さんが、同じことを言っていました。「看護婦があきらめたら、誰も患者さんを救えない」と(注:現在は植物人間という言い方はしません。植物状態です。それと看護婦でなく、看護師になっています)。

 DVD『ペイ・フォワード』でも、主人公のトレバー少年(11歳)が同じことを言います。「ペイ・フォワード(pay it forward 先に送れ)」とは、厚遇を受けたら良くしてくれたその人に返すのでなく、先に送れということです。「一人の人間が三人に、困難な状況で厚意で応答し、その三人がさらにそれぞれ三人ずつに厚意で応答する。こうして厚意の輪が広がってゆく」というアイディアです。これは、社会科の一年間にわたる課題、「私たちの世界を変えるアイディアを出し、それを行動に移しなさい(Think of the idea that changes our world, and put it into action)」へのトレバーの答えです。トレバーは「人生は糞だから」こういうことを考えたと言い、実践します。もちろんなかなか上手くいきません。落胆しているトレバーを、課題を出した先生が「結果ではなく、努力することが大切なんだ。評価は悪くない」と慰めます。しかしトレバーは「点数が問題なんじゃない。ぼくは世界が変わるのを見たかった」と応じます。

 そして、トレバーは、友だちをいじめっ子から助けようとして、刺されて死んでしまいます。「人生は思ったほど糞じゃない」「あきらめたら負けなんだ」というトレバーの言葉に、孤立する状況の中で人間的に生きることの困難と、だからこそ見えてくる輝きが表現されていたと思います。そして、それを信じて行動できるような力が、子どもたちの中にあることも。

 そしてここで償いについても考えさせられました。トレバーの母親やトレバーを愛した人たちの喪失の哀しみはどうやって癒されるのだろうということです。トレバーを殺してしまった子が罪を償えば良いんだろうか。そうではない結末をこの映画は見せてくれています。『新約聖書』「ヨハンネスによる福音12章24-25」の一粒の麦を思い起こさせる結末によってです。悲しみにくれる母親と先生は、トレバーの死を知ってロウソクに火を灯して集まってくる人々の長い行列に気が付きます。彼らの哀しみにみちた、でも微笑によって、二人の悲しみの質が変わってゆくのが分かりました。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、いつまでも一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を顧みない人は、それを保って永遠の生命に至る」

 これはイエス・キリストが処刑される前の晩の話です。イエスは自分の死を知っていて葛藤しています。そして自分の生命への執着はその喪失につながる(自分の命を愛する者は、それを失う)が、自分の生命に淡白な者は永遠の生命に到ると言うのです。トレバーが、生命を失うことで人びとの心の中に復活したことを思わせる結末でした。

 肉体の「死」は絶望ではありません。「死」によってしかその意味や意義を完成できないものがある、そんなメッセージも聞こえてきます。もちろん、ここでの死は、単独者としての死、実存的決断を伴う死です。他者を死なせることではありません。戦争や国家のために死ぬことの奨励に使われるなら、とんでもない間違いです。

 それはさておき、「先へ送れ」という考え方にある人間への信頼と、それが人から人へと伝わり、その活動の輪を広げて行ったことには、宗教観の違いを超えて感動するのではないでしょうか。私も、最後のローソクを灯して人々が集まってくる場面では、ぼろぼろ泣いてしまいました。主人公のトレバーを演じたハーレイ・ジョエル・オスメントが可愛かったというのもありますが、それまでの暗たんたる思いが軽くなったのを覚えています。

 人生の中で起こる様々な出来事、思うに任せないことが多いと思います。そういうとき、「あきらめないこと」というこの言葉とどう向き合うのか。自分の理想や願望にしがみつくのでなく、状況と現実的に向き合いながら抵抗し続けることがあきらめないことではないでしょうか。「あきらめないこと」は、ローカル・レジスタンスの精神でもあると言えるでしょう。

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