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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアにおける客観性3)―系譜学の客観性概念

 私たちの毎日の生活の中で、いろいろなものの見方や価値観に出あうのはごくごく当たり前のことです。「カラス、なぜ鳴くの?」「カラスの勝手でしょう」というのは、ドリフターズが流行らせたフレーズでしたが、小阪修平さんが恣意性としての相対主義の時代の到来の例として挙げていました。ニーチェの遠近法主義も、恣意性の主張と受け取られかねません。

 「生は遠近法的解釈なしには存在し得ない」とニーチェは主張しました。そして、その解釈に普遍的基準から真理性を問うことは不可能だと言いました。なぜなら普遍的「事実」などないからです。解釈を照らし合わせる「基準」など存在しないとニーチェは言います。これは真理の対応説の否定です。真理の対応説とは「真理とはあるものをあると言い、ないものをないと言うこと」、つまり、真理は事実との対応関係によって決まる、という考え方です。ニーチェは、その解釈を照らし合わせる「事実」など存在しないと言います。しかし、解釈の「良し悪し」はあると言うのです。正しいか、正しくないかではなく。

 ニーチェは原典(生、身体、現実)を否定した訳ではなく、それらは解釈と切り離せないと言いました。原典は言葉を通してしか捉えることはできないし、それぞれの遠近法を通してしかとらえられません。ですから多様に解釈可能であり、原典と言葉は繰り返し統合されなければならないのです。ヴィトゲンシュタインが、言語ゲームの正当化は「これが端的に私たちがやっていること」で終わると言ったことも、言語と生の形態の循環を言っています。

 ただ、過度に熱狂的な解釈は避けられなければいけないとニーチェは主張します。そこで要求されているのが、原典への誠実さと正義の感覚です。このとき文献学的解釈が要求されます。この文献学的解釈は、1885年頃に捉え直されたものです。いわゆる「歴史的・批判的方法」としての文献学ではありません。「よく読む」技術としての文献学です。

 そして客観性とは、様々な遠近法の差異を認識に役立てられるような知性の自在さ、と捉え直されます。「関心なき直観」なんかじゃない、と言うのです。主観的なものを出来るだけ排除して認識するという客観性、鏡としての客観性は否定されます。

 系譜学の客観性とは、この多くの遠近法を自在に駆使できる能力のことです。そして系譜学的解釈とは、事物の発見的説明としての認識ではありません。ではそこで読み取られているものは何なのでしょうか。何を規準にして「よい解釈」と「悪しき解釈」が言われ得るのでしょうか。これは、ケアにおいて他者に寄り添うというとき、問題になってくるものです。まずは相手の解釈を受け入れること(生における解釈は多様である)が重要。しかし、それは客観的判断評価を捨てると言うことではない、恣意性の容認ではない、という時に問題になることでもあります。

h-miya@concerto.plala.or.jp