宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアにおける客観性1)―ニーチェの遠近法主義

 ケアを相手に寄り添うことと、定義することから始めて、ケアの立場に立った客観性とはどのようなものでしょうか。その際、まずニーチェの解釈のみ(遠近法主義)の立場から始めてみたいと思います。そうすると、立場を超えた客観性をどう設定できるかの問題になってきます。ではニーチェの遠近法主義から始めようと思います。

 現代思想に大きな影響を与えたヴィルヘルム・フリードリッヒ・ニーチェは、1889年1月3日にイタリアのトリノ広場で昏倒し、3日から7日までの間に、友人たちに誇大妄想的手紙を多数書いています。ニーチェはその後10年間、狂気の中を生き、1900年8月25日、ワイマールで亡くなっています。ニーチェの意識が鮮明だった時期の晩年に当たる1886年末から1887年春に書かれた遺稿の中に「すべては解釈である」という有名なフレーズがあります。

「『存在するのは事実だけだ』として現象のところで立ちどまってしまう実証主義に対して私は言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ、と。われわれは事実『それ自体』は認識できないのだ」(KGW Ⅷ7〔60〕)

 「存在するのは解釈だけ」というのは、真理という基準が成り立たないときの、私たちと世界の関わり方を表現しています。これが遠近法主義の立場です。ものの見方や考え方の多様性、それは私たちが出会っている現実です。どうして認識・判断・行為は多様なのか。それぞれの関心や必要性によって、同じ事象に対しても異なった反応が生じるからとまずは言えます。遠近法の多数性は、ある意味当たり前です。そして世界とは、このような様々な遠近法が可能となる地平そのものと言えます。

 これら多数の遠近法の存在自体が遠近法主義ではありません。多数の遠近法を評価・判断できる「正しい」基準があると考えるとき、それに沿って、多数の遠近法は整理・整頓されます。多数の解釈の存在が、遠近法主義を意味するのではありません。多数の解釈を評価する「基準」は存在しない、というとき遠近法主義が登場します。

「世界は背後に一つの意味を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。『遠近法主義』」(KGW Ⅷ7〔60〕)

 ただし、ニーチェは「何でもあり」といったわけではありません。では無数の解釈をどう評価・判断してゆくのか。次は、このニーチェの評価・判断をめぐる系譜学の視点を考えてみます。

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