宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

社会福祉は「われわれ」の範囲の拡張

 先週の9日(木)は天気予報通り、雪でした。車のタイヤを雪対応にしていなかったので、ゆっくりゆっくり、大通りを選んで運転しました。午後には雨に変わって、帰る頃には、道路の雪はほとんど溶けていました。やれやれ😥。

 今日も晴れていますが、やはり風は冷たいです。昨日、4歳くらいの女の子がリュックを背負っているのを見ました。その中からぬいぐるみの犬が顔を出していました。思わずほっこりする光景です。高齢者とほぼ毎日関わっていますが、(学齢期前の)子どもと高齢者は親近性が高いと言われます。繰り返しが好きとか、可愛いものが好きとか。高齢者や子ども、そして障がいを持った人など、社会的弱者を支援する社会福祉の底にあるのは何なのでしょうか。

 意味ある目的を達成することを重視するのが現実の社会です。行動は成果を問われる、と言っていいと思います。子どもや高齢者はそういう成果主義的目的達成を問われることはありません。成果を問われるというのは、評価されることですが、その基準はお金、名誉、権力と言っていいでしょう。

 これに対し、子どもや高齢者は自分の欲求に従って行動することが、奨励されます。子どもはその行動を通して、自発性を促進し、社会的約束事を学習します。では高齢者は?「元気で長生きすること」でしょうか。子どもにとっても高齢者にとっても、それぞれの行動の意味は、主観的には快の達成ということでしょう。

 どちらも「最大多数の最大幸福」の達成とは言えるかもしれません。これは功利主義の尺度です。これに対して、動機主義・心情主義の立場がよく対比されます。行動は結果で評価されるのでなく、その動機が重要だという立場です。誰かを助けたいと思って取った行動(溺れかけている人を助けようとして一緒に溺れてしまった)は、結果が悪くても評価されます。功利主義帰結主義の立場に立つと、これは厳密にはマイナス評価です。なぜなら、一人の人が溺れるより悪い結果を招きましたから。

 私たちは通常、両方をバランスをとって、使っていると思います。溺れかかっている人を助けようとして一緒に溺れてしまった場合、それを非難したりはしません。しかし、自分が助けられないと分かって、助けなかった人を非難したりもしません。動機主義の代表者と捉えられているイマニュエル・カントも、不完全義務と完全義務という言い方をしています。人が溺れそうになっているとき、通報の義務は不完全義務としてはあると思います。

 完全義務というのは、やらなければ非難される行為、やっても褒められるわけではない行為のことです。例えば、「自分が得をするために嘘をついてはいけない」は守られなければ非難されるし、場合によっては罰せられますが、そういう嘘をつかないからと言って、褒められる訳でもありません。不完全義務とは、やらなくても非難されないが、やれば褒められる行為です。慈善的行為はこれにあたります。カントはこの二つの義務を区別し、さらにそれを自分に対するものと他人に対するものに分けています。自分に対する完全義務には、例えば、自殺の禁止があります。自分に対する不完全義務には、例えば、自分の能力を育てることがあります。

 では、社会福祉の考え方は、何に基づくのでしょうか。人間一人ひとりの人権と幸福(福祉)の増大には、社会が責任を持たなければならない。これは社会全体の幸福の増大のためでしょうか。それでは不十分でしょう。なぜなら、「最大多数の最大幸福」では少数者の切り捨てを防げませんから。ストレートに「人間は一人ひとりが目的そのものである」という立場で、人間の尊厳を語るのは、動機主義の立場です。

 さらに言えば、リチャード・ローティが、民主主義とは残酷さを減らすことだと言っているような、他者の痛みへの想像力や感受性に基づく「われわれ」の範囲の拡張と捉えたいと思います。ヨーロッパの「福祉はアートなり」という定義にもつながると思います。そう言えば、教育はアートである、というのはシュタイナーの教育観でした。

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