宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「私」って誰?

 『ソフィーの世界』(ヨ―スタイン・ゴルデル)という哲学ファンタジーが、1995年に翻訳出版され、一時期、女子高生たちも電車の中で読んでいる、と話題になりました。その後映画化もされました。

 主人公のソフィー・アムンセンは、ある日不思議な手紙を受け取ります。「あなたはだれ?」。2通目の手紙は「世界はどこからきた?」。この二つの問いが、ソフィーを哲学の世界に誘います。

 私が私であることは何によっているのでしょうか。記憶?身体?免疫構造?それは「私」が何を意味するのかにもよります。時間と空間を別にする存在のまとまりということなら、身体や免疫構造が「私」の本質になります。

 西洋近代の主観主義は、デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」から始まりました。この「思うわれ」と「われの存在」は、同時です。この「われ」は身体を持ちません。ソフィーはまさにこの精神としての「われ」なのです。

 デカルトは、確実に存在するもの(真理)に到達するために、疑えるものをすべて疑います。そして到達したのが、疑うという行為を遂行している「われ」でした。すでに自分の身体も存在しないかもしれないと疑った後ですから、この「われ」は身体を持たない精神としての「われ」です。例え間違ったことを考えていても、考えている瞬間に考える「私」は存在する。ですから「ゆえに」は同時存在の「ゆえに」なのです。

 このデカルトの思想が心身二元論です。これはいろいろに批判されていますが、真理を意識の自明性に置いた点で、神学的世界観からの脱却(世俗化)の確かな地盤を与えました。私たちの常識は、「私」とは「身体的存在としての私」です。もちろんデカルトだって、自分の身体が存在しないと信じていた訳ではなく、疑おうと思えば疑えるでしょうと言ったわけです。こういう行為を「方法的懐疑」と言います。確実なものに到達するために方法とし、まずは疑えるものはすべて「疑う」ということです。

 この精神としての「私」は、世界を構成する主体、世界に居場所を持たない、世界から自由な存在です。ところで私たちが、「私って何なのだろう」と問う時、それは自分の居場所が不確定になっているから、あるいは居場所との違和感を感じるからではないでしょうか。その時、世界に居場所を持たない「私」の発見は、どういう意味を持つのでしょうか。

 しがらみや規則に縛られるとき、解放されたいと思います。しかし、しがらみも規則も、自分が受け入れるかどうかによってその効力を発揮すると気付くとき、確実だと思っていた足元が揺らぐ感じがします。それは解放であると同時に不安を呼び起こします。しがらみも規則も気持ち次第。もちろん、それらは現実に存在していますが、自分の気持ちをその拘束力から切り離すことは可能だと気づくとき、「私って誰?」という問いが切実さを帯びます。それは場所を失った「私」、浮遊する「私」と言っていいかもしれません。

 一般の人が求めているのは、絶対自由という意味の自由ではない、というようなことをバーリンが『二つの自由概念』の中で書いています。一般に人が求めるのは、承認されたいということではないかと。

 浮遊する私にとって、承認される場所というのは、現実に生きている私を感じられる場所なのでしょう。私探しとは、その意味で自分の居場所探しなのかもしれません。これは、おそらく幾つになっても、明確に意識するしないに関わらず、生きることの基本をなしている気がします。別の言い方をすれば、人は幾つになっても自分の居場所を求めて、新たな自分と出会えるということではないでしょうか。

 「私」というのはその意味で、場所(トポス)と一体化することで現実化する存在という気がします。内部へと問いを深めていけば、真の自分と出会えるというより、「場所」における現実の「私」を記述してゆく中で、「私」とその都度出会う。「『私』って誰?」への一つの答えがそこにある気がします。

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