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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

謝る力、許す力

 師岡カリーマさんが、東京新聞の「ホンネのコラム」で「慰安婦像と誠意」(12月31日)と題して、許しの問題を書いていました。ソウル日本大使館前に設置された慰安婦像撤去問題です。相手方の怒りが収まらないときどうするか。

「選択肢は二つに一つ。もう謝ったんだからいいじゃないか、と開き直るか、もういいよと言われるまで謝り続けるかだ。後者の方がエレガントだろう」。いっそのこと非公式で大使館員が毎朝像に花を手向け、手を合わせてはどうか。パフォーマンスと揶揄されようが、罵声を浴びようが、碑文の内容がフェアか否かを別にして、ただ慰安婦本人のためにだけ粛々と祈れば、いつかはかたくなな心もほぐれるかもしれない、と。

 5年くらい前にDVDで観た『ファイターズ・ブルース』(2001年公開)という映画を思い出しました。アンディ・ラウ常盤貴子が共演して話題になった香港映画です。香港人ボクサーのマン・フーは、八百長試合をしようとして、タイのチャンピョン、チェチェンをリング外で殺してしまいます。彼は14年間刑務所で罪を償い、出所後、亡き恋人との間に出来た娘を孤児院に訪ねて、シスターの澪子と出会います。彼女の力添えもあって、娘と暮らすようになりますが、彼は、現在のチャンピョンとの闘いに再生をかけます。回り中みんなが止めるのを振り切って。

 リングでボロボロになりながらも闘い続けるマン・フーに、最初ブーイングで迎えたタイ人の観衆も、あっけに取られ、対戦相手のチャンピョンも最後は、止めろというように手加減するようになりますが、それでもフーは挑んでいって、リングに倒れます。最後はみんなが立ち上がって拍手の嵐。「会いたいよ、マン・フー」という澪子の言葉でエンディング。

 謝ること、許すことの重さを感じた映画でした。人は過ちを犯します。生きているということは間違うということでもありますから。だからこそ、その過ちにどう向き合うかは大きな問題です。誠心誠意謝るという言葉がありますが、誠心誠意はどうやったら伝わるのか。それはまた本当に謝るとは何か、を突き付けています。相手のあることなので、相手が許してくれない限り、終わらないとも言えます。相手方の怒り、悲しみ、恨みを分かるとはどういうことなのか。

 そして、許しはどうやったら出てくるのか。怒っている側、恨んでいる側も、そういう気持ちにけりをつけたいはずです。謝ることと許すことは、文化の中でその作法が作られてきたと思います。どういう言葉で謝るか、どういう態度をどのくらいの期間どういう形で示すかなど。それを受けて、許しの心が発動する。このような「型」は、長い時間をかけて身体化するまで熟成させられてきたのではないでしょうか。

 現代の戦争(内戦も含め)の残酷さ、職場環境の非人間性、原発事故の被災者への対応、子どもの貧困問題などに対して、まだ政治は対応しきれていません。文化的作法もできていないと思います。作法ができていないとは、その残酷さに向き合いきれていない、想像力が追い付かない状態とも言えるでしょう。

 唯一「話し合う」というツールを私たちは利用できると思います。「話し合う」ことは単に理屈のやり取りではなく、そこに絡んでいる情もやり取りしています。理屈も多様なら、情も多様。それらひっくるめて、互いに向き合う力が必要なのかもしれません。まさに熟慮するだけでなく、熟議することが要求されている時代だと思います。

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                   元旦の平磯海岸

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