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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

センス(感覚)の客観性:多様であることは評価不可能を意味しない

 27日、お正月のお花の活けこみが終わりました。なかなか豪華な作品が出来上がって、3人とも大満足です。花材は同じ、ただ枝ぶりなどは微妙に異なります。花器も形は同じで、色が違うだけ。それでも出来上がった作品は、雰囲気が異なります。これはいつも、面白いなあと思います。

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  Hさんの作品          Yさんの作品           私の作品

 写真ではあまり伝わってこないのですが、生で見ると、パッと見た印象がやはり異なります。これが個別性なのかなあ。そしてそれを直してくれる先生の感覚がうまく合致すると、「そうこれこれ」という完成品になります。3人3様に直してもらえるのも、すごいなあと思います。

 感覚は人それぞれとよく言われますが、でも感覚はかなり客観的なのではとも思います。センスの良さ、というのはやはり共通して感じ取られます。

 数学の客観性はある意味わかりやすいし、数量化すると共通のベースを獲得した感じになります。「なんか蒸し暑いわね」でなくて「32度、湿度80%」と言われると、状況が客観的に共有されたという気になります。でも本当のところどうなのでしょうね。蒸し暑さを表現する力は、数値化することでスルーされがちになっているのかも。蒸し暑さを短歌や俳句で表現可能だし、共有も可能ですよね。あるいは、落語や音楽やダンスで。センスは、意外なほどに数値でなくても共有されるのでは、ということは客観性を持っていて、ただそれが数量化とは異なるということです。

 3人3様の生け花には、それを活ける人の人となりがそれとなく滲み出ています。そしてそれを直してくれる先生の感性は、納得させる力を持っています。センスの良さとセンスの多数性は両立します。そしてそれは、かなりの程度評価可能です。多数性が単純に相対性を意味しないこと、多数性は単純に「評価不可能な何でもあり」ではないことを、センスの客観性のあり方が示しています。

h-miya@concerto.plala.or.jp