宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェとニヒリズム

 ニーチェの『権力への意志』は、なぜニーチェ解釈のゆがみに寄与したのか。『ツァラトゥストラ』は、19世紀からの解放の書として、第1次世界大戦中に戦地に赴く若者たちを勇気づけました。ドイツ的高貴さvs.フランス・イギリスの浅薄な文明というような図式で。これにはトーマス・マンの『非政治的人間の考察』(1918年)の影響も大きいと言われます。ただ『権力への意志』が果たした役割は、今ひとつピンときません。『権力への意志』には副題として「すべての価値の価値転換の試み」がつけられています。そして冒頭はニヒリズムで始まり、最後がディオニュソス永遠回帰です。

 ニヒリズムという言葉が、哲学的に初めて使われたのは、D・イェーニッシュのカント論(1796年)においてではないかと言われます。イェーニッシュはニヒリズムを叱り言葉として使っています。当時のニヒリズムという語の使い方も、キリスト教教会に楯突く者や権威を否定し反抗するものへの叱責の言葉だったようです。日本語の訳では「虚無主義」ですが、虚無とは何物もなく、むなしいことです。しかしニヒリズムは楯突く者、反抗する者への叱責言葉ですから、どうも少し意味合いが異なります。この辺りは、ニーチェの解釈では受動的ニヒリズムと能動的ニヒリズムの違いになってきます。ニーチェ自身は自分をどう規定していたのか。

 ニーチェニヒリズムという語を使いだしたのは、1881年秋頃と思われます。この頃から1885年夏頃までのニヒリズムへの言及は、社会現象としての、当時の暴力に訴える破壊行動を指しています(能動的ニヒリズム)。1886年春以降、ニヒリズムへのまとまった叙述が見られます。この時期に「ニヒリズムが戸口に立っている」で始まる断章がかかれています。ここでニヒリズムの原因が、キリスト教道徳の解釈のうちに潜んでいると言われます。キリスト教道徳によって培われた誠実さの感覚が、キリスト教的世界解釈に嘔吐感を抱くようになったというわけです。『権力への意志』では、序言に続く「第1書 ヨーロッパのニヒリズム 計画」の部分に置かれています。

 「1887年6月10日レンツァー・ハイデにて」(KGWⅧ5〔71〕)で、ニヒリズム永遠回帰と結びつけて語られています。つまり、ニヒリズムのもっとも極端な形としての「無が永遠に」は、呪いとして感じるであろうと。ここで能動的ニヒリズムと受動的ニヒリズムが語られます。

 そして1887年秋ごろに至って、徹底的なニヒリズムが語られるようになります。ニーチェは自らを徹底的なニヒリストとして、受動的ニヒリストとも能動的ニヒリストとも区別しています。この時代に書かれた部分が『権力への意志』では初っ端(序言)に来ています。彼が自分をニヒリスト、それも徹底的なニヒリストとして規定したのはこの時期だけです。いろんなニヒリストがいるけど、自分は徹底的なニヒリストで、彼らとは別だと言っているわけです。

 従来の価値を否定すればいいわけでなく、それにも流儀があるというのが、ニーチェが言いたかったことなのかなと思います。ただ『権力への意志』の並べ方では、従来の価値を否定することが超人につながり、価値転換に至ると読めるのかもしれません。価値転換も何でもいいわけではないのですが。この辺りごちゃごちゃしているので、時代を追わない並べ方は、余計何が何だか分からなくなります。私の頭も、『権力への意志』についてもう一度整理してみなければ、と思います。

f:id:miyauchi135:20161214204957j:plain       f:id:miyauchi135:20161214205040j:plain   千波湖夕景(12月14日)              千波湖(12月14日)空と湖面が同じ色に            

 

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