宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

多数決はなぜ正しいか?:陪審定理

 民主主義と多数決は切っても切れない関係にあります。しかしそれゆえの危険性もあって、プラトンは衆愚制と切り捨てます。ギリシア的社会構成の立場からは、民主主義は認められないようです。理性が強い人と気概に富む人と欲望に駆られる人という3区分を、プラトンは国家を構成する人々の間に設けています。みんな同じではないのです。この発想はプラトンの独創というより、ギリシア的コモン・センスがベースにあると言っていい。

 時代は下って、「最大多数の最大幸福」を掲げる功利主義が形成された18世紀後半から19世紀にかけて、功利主義者J・S・ミルは、少数者が切り捨てられる危険性に警告を発しています。功利主義では、一人は一人としてだけ数えられます。庶民も貴族も一人は一人という考え方です。数の論理が出てきます。

 では多数決は正しいのでしょうか。「最大多数の最大幸福」を掲げれば、確かに多数決で物事を決めることを根拠づけられます。しかし、幸福であることと正しいことは必ずしも一致しません。アリストテレス的に発想すれば、最高善と幸福は一致しますが、欲望の充足も幸福と考えると、最高善からは遠のきます。それはまた、なぜ少数派は多数派の意見を受け入れるべきなのか、という問いをも呼びます。その正当性はどこにあるのか。

 数の論理の正当化をどう考えるのかをめぐって、坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波新書)では、「それは多数派が見付けた一般意志の判断に従うこと」であって、「多数派の意志に従うことではない」と言われています。一般意志とは、ルソーの『社会契約論』の思想です。一般意志は個々人が自分の利益をひとまずわきに置いて、自分を含む多様な人間がともに必要なものは何かを探ろうとすることだと言われます。ジョン・ロールズの「無知のヴェール」の発想もこれです。そして、ここで使われるのが熟議的理性です。一般意志と熟議的理性の部分はまた改めて書きたいと思います。

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         バラと浅草の雷門 別に関係はありません。ちょっと一休み。

 数の論理の正当化に話を戻します。陪審制での多数決はどんな考えに基づいて正当化できるのでしょうか。ここでは、コイントスで決めるより、理性に基づいたほうがより良いはず、という前提があります。

 例えばある一人の陪審員が、理性に基づいて判断したときの正しさの確率を、1よりは小さいが、0.5よりは大きいとして、いま仮に0.6とします。そして、陪審員を3人に想定すると、その判断が正しい確率はどうなるか。8つの場合分けができて、確率は0.648になります。陪審員の数を増やしていくと、多数決の結果の正しい確率は大きくなります。7人で0.7を超し、101人だと0.97を超します。

 どういうことか。一人で判断して正しいのはその人が正しくなければだめです。3人なら、2人が正しければ多数決の結果は正しくなります。7人なら4人が正しければよく、101人なら51人だけ正しければ、多数決の結果は正しくなります。判断する人数が大きくなるほど、全体の判断結果が正しくなるハードルは下がります。多数決では正しい判断をするものが、半数を超えさえすれば結果は正しくなりますから。

 つまり正しい判断をする者が過半数になる確率は、陪審員の人数が増えるにつれて100%近くまで上昇するということです。これを陪審定理というそうです。もちろん、各自が理性を働かせ、独自に判断するという条件がある場合です。この陪審定理の数学的一般化は、多くなされているとか。理性的判断がコイントスより正しくなる確率が高いという前提と、判断する人の独立性が保たれれば、なるほど多数決による判断の正当化は言えるなあ、と納得。ただし、これは、「理性的判断の正しさ」の妥当性が言えて、人の意見に左右されない環境づくりが成功すれば、ですが。

h-miya@concerto.plala.or.jp