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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

田中正造と小出裕章さん

 小出裕章さんが、『世界』(2013年7月号)に書かれた「滔々と流れる歴史と抵抗ー正造さん没後100年に寄せて」を読みました。とてもいい文章だなあと思います。田中正造足尾鉱毒問題が、歴史の中できちんと押さえられ、分かりやすかったです。原発事故も、1957年のイギリスで起きた過酷事故、アメリカのスリーマイル島原発事故、チェルノブイリの事故、そして福島第1原子力発電所事故と、原子炉の型の違いを含め簡潔に解説されています。そうかあ、世界で使われてきた英国型、ロシア型、米国の二種類の原子炉(加圧水型・沸騰水型)すべてが過酷事故を経験したんだ、と納得。

 正造さんの時代もそして現在も(民をでなく)国を豊かにするという思想の構図は変わっていないと小出さんは指摘します。しかし、それは結局真に国を豊かにするものではない、これは正造さんが指摘した通りだ、とも。

 先日、渡良瀬遊水地にある谷中湖に行って来ました。中の島まで歩いてみましたが、周りに広がる水面の下に、かつては人が暮らしていました。今は水鳥がやってくる留場のようなものが作られていました。遊水地の東側、渡良瀬川のほとりに田中正造遺徳の賛碑があり、古河歴史博物館にも田中正造と彼を支援した人たちの資料が展示してありました。

 渡良瀬川の洪水は水源地帯の腐葉土を下流の田畑に運んで、田畑を豊かにしていました。そして足尾銅山は1600年頃からの歴史を持ちます。一時休山していましたが、明治時代に再度隆盛を極め、鉱毒渡良瀬川に流されたことで悲惨な歴史が始まりました。洪水のたびに鉱毒で甚大な被害が生じ、堤防では防ぎきれず、時の政府は栃木県谷中村を水没させて鉱毒溜めの池を作ることにしました。これが現在の渡良瀬遊水地です。田中正造は1904年に谷中村に入村し、住民たちと共に闘いますが、1907年、抵抗し続けた19戸の家屋は強制執行によって取り壊され、谷中村は水没しました。正造さんは、その後も残って抵抗を続けた住民に寄り添い続け、1913年、運動資金集めの途上で客死しました。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文で、全財産は信玄袋一つだったそうです。10月12日の佐野町惣宗寺での本葬への参列者は、数万人とも言われます。古河市には多くの支援者が居たそうです。

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   田中正造遺徳の賛碑        正造直訴の場面が真ん中にありますが撮れていませんでした。

h-miya@concerto.plala.or.jp