宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

常識―お墓の花から考える

 もうすぐ伯母の1周忌の法事があります。伯母には子どもがなく、今は弟が継いでいる宮内家の墓に眠っています。伯母の葬式・四十九日・百か日は、伯母の希望で従姉の旦那さんが仕切りました。実質は従姉が手筈をすべて整えました。ところが、従姉が8月に亡くなり、今回の一周忌の法事は従姉の旦那さんがすべてやることになりました。そして、地元にいる私がお墓の花の手配を頼まれました。

 この弟が継いでいるお墓には、墓石が4つあります。それぞれに花入れが2つずつ、計8つの花入れがあります。でも、お盆と春秋のお彼岸の時以外は、お正月なども2把だけ活けていました。法事の時はどうするのかと、母に聞いたら、2把でいいと言われました。葬式の時も2把でいいのだそうです。お骨は全部、真ん中の墓石の下に、集められているからと。「じゃあ、どうして、お盆とお彼岸の時に8把活けていたの」と聞いたら、「そうやっていたから」と言われました。前はそれぞれの墓石の下にお骨が埋められていたからかなとは思いますが、よく事情を知っていた人たちは全部亡くなっていて、前例だけが踏襲されている例と言えます。2把にまとめてもいいと、亡くなった伯母も言っていたと母は言います。弟は、今まで通りでいいんじゃないのと言っているそうです。

 ここからが問題なのですが、葬式等従姉が実質手配していた時は、8把ずつ活けられていました。今回はどうするのか、ハタと考えてしまいました。取りあえず、仕切る人に聞いてみなければと思っています。母に、活ける花の数の違いを「なんで?」としつこく聞いていたら、むっとされました。母は簡易化したい方です。かつこれで行くと決めると、あれこれ考えるのが面倒なようです。

 お墓や仏壇をめぐることなどよく分からないまま、踏襲してますよね。これぞあいまいな常識の類かなと思います。でも、結構こだわる人はうるさいです。常識侮るべからず。常識は手ごわい。常識の根底にある共通感覚(コモン・センス)、これは私たちの生活世界を作っているものです。常識の茫漠とした豊かさと硬直している側面と、両方を見ないと足を掬われます。

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笠間日動美術館分館 春風萬里荘の石庭     美術館企画展示館から

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