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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人生「どうしたもんじゃろのー」

 9月ももう終わりです。9月は小出裕章氏講演会のチラシ配りや実行委員会、介護者初任者研修、東京での昔の仕事仲間と女子会、同窓会の総会、お彼岸などなど、あっという間でした。最後の一日、ブログを書いておこうと思ってパソコンに向かってます。

 なんとなくせわしない中、思想と向き合うのは、ほっとします。仕事で読んだり書いたりするというより、ふっと自分と向き合いながらの時間になります。クリシュナムーティの『自我の終焉――絶対自由への道』をパラパラ読んでいました。ずっと前に読んだときと異なった響きで、彼が言おうとしていることを理解した気がします。「あるがままの自分を見なさい」が、解放の言葉であることも分かりました。私自身が疲れていたせいもあると思います。

 ニーチェの『善悪の彼岸』の中に、印象的な文章があります。1995年の日記に書き留めて以来ずっと気になっていた文章ですが、胸を突かれた一文でした。訳者によって微妙に異なる訳になるのですが、私には信太正三さんの訳がぴったり来ます。

「いたわるような振りをして――殺す手を見たことのない者は、ぞんざいに人生を見てきた者だ」(『善悪の彼岸』69)

 ニーチェの繊細さに胸が痛くなったことを覚えています。ニーチェキリスト教道徳を奴隷道徳として、痛烈に批判しました。しかし彼は道徳の役割を否定していたわけではありません。習俗の倫理としての道徳は、一つの方向へと人間を拘束することで、意味あるものを生み出してきたと言っています。地上の生存を生きがいあるものにする何ものかは、気随気儘からは生じない。永年にわたる拘束がその成果として、「主権者的個体」へと止揚されるというのです。

 クリシュナムーティは「自我」という囚われから抜け出すために、ありのままに自分を見つめ続けなさいと語りました。思考や観念は空虚だとも。ニーチェは「小さな自我」を徹底することで「大きな自我」へと到達しなさいと言っています。ただしこれは人間の没落、超人への止揚です。二人とも、現在の私たちの在り方に警鐘を鳴らしています。さてはて、どちらも大変です。「どうしたもんじゃろのー」。

h-miya@concerto.plala.or.jp