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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェと妹エリーザベト

 スマップ解散報道以来、スマップ報道がリオ五輪と交互に民放を独占しています。1月の騒動は収束していなかったということです。私たちの世代は、1970年のビートルズ解散を思い出します。原因はいろいろ言われはするものの、未だに当事者たちが黙したまま(ということは彼らも本当のところ分からないのだろうと言われます)、分からないです。個性派ぞろいがユニットを組み続ける大変さ。プロジュースする人間の重要さ等々、裏方も含めての活動なのだと改めて思います。

 さて、5日に久しぶりに哲学科時代の友人たちと会って、目黒雅叙園の「和の明かり×百段階段」展に行ってきました。見終わってからおしゃべりに花が咲き、あっという間に3時間半が経ってました。終わったばかりの都知事選の話から、プラトンの哲人王の話になりました。私はニーチェの道徳論から研究生活を始めたので、「超人」王かな?なんてことを言いましたが、結局、そういう突出した存在は続かないという結論。民主主義で行くしかないよねで、終わりました。

 ニーチェは1900年に狂気の中で生を終えました。1889年1月にイタリアのトリノで精神に異常をきたし、1897年まではお母さんが面倒を見ていました。母亡き後、ニーチェの面倒を見たのが、妹のエリーザベト・フェルスター・ニーチェです。このエリーザベトはニーチェを宣伝し、ナチスの教義の理論的バックボーンとしてニーチェの思想を使うことに賛同しました。目的解決型のエネルギーの塊のような女性だったようです。

 彼女の結婚相手のベルンハルト・フェルスターは反ユダヤ主義者で、ニーチェは彼が大嫌いでした。彼の人間性にもその反ユダヤ主義的信条にも嫌悪感を抱いていました。ニーチェは、1885年5月の二人の結婚式には出席していません。ニーチェと妹が仲たがいした原因は、ルー・サロメをめぐる妹の嫉妬・中傷と同時に、妹のフェルスターとの結婚へのニーチェの怒りがあったと言われています。

 ベルンハルトとエリーザベトは1885年5月に結婚すると、1886年2月にドイツを出発してパラグアイに移住しました。ベルンハルトは「ヌエバ・ヘルマニア(新ドイツ)」というアーリア人植民地を創ることに使命を見出しパラグアイに入植しますが、巨額の負債を抱え1889年に自殺します。エリーザベトは一度帰国して資金集めや入植者集めに奔走しますが、彼女の誇大広告に内部告発者が出て、結局彼女はヌエバ・ヘルマニアから追放されます。エリーザベトは1893年にドイツに戻りますが、この植民地の残滓は今も残っています。のちに、ナチ党員だった戦犯ヨーゼフ・メンゲルが1979年死亡というのは偽装で、ここにしばらくいたという伝説が生まれたりしました。

 さてエリーザベトはドイツに戻った後もめげることなく、1895年には、「自分の時間は偉大な兄の世話と、その著作の管理や兄の人と思想を記述することに使われなければならない」というような記事を書いています。母亡き後、ニーチェの世話を引き継いだエリーザベトは、住まいをワイマールに移し、ニーチェの未公刊のノートを『力への意志』として出版する準備を始めます。『力への意志』(1906年公刊)は『ツァラトゥストラ』と同じくらい有名になりますが、同時にニーチェ思想への誤った理解を招く主導的役割を果たしたとも言えます。

 エリーザベトは1935年に亡くなりますが、その葬儀にはヒトラーや複数のナチ高官が参列していました。ニーチェを売り出し、ニーチェの讃美者をパトロンにし、ついには時代の権力者を後ろ盾とするその逞しさ。彼女自身には、ニーチェの思想を理解する能力はなかったと言われていますが、だからこそ、臆面なく、ニーチェを売り出すことに奔走できたのかもしれません。もちろん、彼女には兄への尊敬の念があったことは言うまでもありません。

 

h-miya@concerto.plala.or.jp