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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

学校の中立って?

 「核のゴミと私たち」と題して企画中の「小出裕章氏講演会」(10月15日、於勝田ワークプラザ)において、前もって若い人たちからの質問を取り小出裕章氏に答えてもらいたいと思っています。ある学校を訪問して、趣旨を説明し、学内にチラシと質問文を掲示してもらえないか伺ったところ、教育基本法の学校の持つ中立の精神に反するので、無理だと言われました。自分の学校が企画するなら別ですが、とも。

 学校の教員は全体の奉仕者であること、政治的・宗教的なものに関しては特定の立場に立つ活動はできない、というようなことでした。基本法第6条及び8条、9条に関わる部分です。でも、小出さんは別に政治活動をしているわけでも特定の政党に関わっているわけでもないし、その意味では第8条は関係ありませんし、まあ9条は宗教に関わる条文で話の中で、私立の場合はありますが、ということでした。

 要は全体の奉仕者として中立の立場で、特定の団体の活動には肩入れできない、それをやるとすべてを受け入れざるを得ない、というようなことでした。そもそも「全体の奉仕者として」の言わんとしていることは、合理的理由なしにあるものに肩入れ(えこひいき)しないということです。その合理的理由は、時代によっても社会状況によっても変わってきます。例えば少数者の社会的権利を擁護するために、少数者登用に数値目標を入れるという手段は、かつては(日本では今でも)合理的とはみなされませんでした。つまり理に適っているとはみなされなかったわけです。

 「核のゴミ」問題に取り組むことは、現在では原発の推進派にも喫緊の課題の一つであるはずで、現代を生きる市民にとっては避けて通れない問題です。合理的理由なしにあるものに肩入れ(えこひいき)しないのが中立と考えれば、今回の場合、合理的な理由を検討することを忌避するために、「全体の奉仕者」とか「中立」をさっと出しているように思えました。

 「中立」の言葉で思い出すのは、「中道」「中庸」です。仏教の中道は、「二辺のいずれかに偏る謬見、邪執から離脱している不偏中正」の道です。儒教の中庸は、偏らず、過ぎたると及ばざることのないことを言っています。それは形而上的な中によって根拠づけられるもので、消極的・固定的な波風立てない処世訓ではない。古代ギリシアの哲学者アリストテレスの中庸の徳とも基本的な考え方は同じだと思います。「しかるべき時に、しかるべき事柄について、しかるべき人に対して、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で、美しく振る舞うことができる」のがアリストテレスの中庸の徳です。幾何学の線分のちょうど真ん中のようなものではありません。

 人間の社会や人間の生き方において中立は難しい。少なくとも私は「理に適った」行為をすることを目指すことが、中立の理想なのではないかと思っています。単純にルールに従うことが「理に適う」とは言えない場合もあるのが、人間の生きる場なのではないでしょうか。そして「理に適った」行為は一つではありません。だからこそ、一人ひとりがしっかりと自分の思いと今起きていることと、向き合う必要があるのではないでしょうか。

 J・S・ミル『自由論』「第2章 思想及び言論の自由について」では「出版の自由」あるいは「公的発言の自由」について論じられています。ある意見に対する論争を制限することの有害性は、たとえその意見が真理であったとしてもあるということを言っています。論争の回避がもたらすものを、ミルは次のように言います。

 「その意見がいかに真理であろうとも、もしそれが充分に、また頻繁に、かつ大胆不  敵に論争されないならば、それは生きている真理としてではなく、死せる独断として抱懐されるであろう」(『自由論』岩波文庫、73頁)

 学校の中立とは、論争によって振り子の針が揺れ収まるところにのみ成り立つのであって、その論争を回避し、手間を省くためのルール遵守であるなら、それは中立という名の独断と変わらないことになりかねないと思います。

 

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h-miya@concerto.plala.or.jp