宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『ゴルギアス』から

 前回、政治における「カタチ」の問題を書きました。では内容をどう考えるのか。この問題は、プラトンが政治の世界から哲学の世界へと、生きる場を変えたときに問われていた問題でもあります。『ゴルギアス』は対話篇初期の最後の頃に書かれたと言われています。この対話篇の最後の辺りで、新進の現実政治家カㇽリクレス相手にソクラテスは次のように述べています。

 「ひとは何よりもまず、公私いずれにおいても、善い人と思われるのではなく、実際   に善い人であるように心がけなければならない」(『ゴルギアス』527B)

 現実政治家カㇽリクレスは「力こそ正義」論をソクラテス相手に展開し、このような強者の倫理はニーチェの思想に大きな影響を与えたと言われています。カㇽリクレスはソクラテスの送っている哲学者の在り方に非難を浴びせ、それは若い頃ならまだしも、いい年をした大人がする生活ではないと言います。そんな人間はやがて法廷に引っ張りだされても身を守る術を知らないことになる、とソクラテスの行く末を暗示するのです。これに対してソクラテスは、カㇽリクレスの主張の一つひとつを鋭く反駁してゆき、彼を沈黙させます。そして最後の頃に、上のような主張が述べられます。

 カㇽリクレスは黙ってしまいますが、心底納得したわけではありません。プラトンはこの書を通して、アテナイの現実の政治への決別と同時に、ソクラテスこそが真の政治家であるという「哲人王」の思想への道を歩みだしたことを示しました。この『ゴルギアス』では哲学が実社会から厳しい批評を加えられ確立されなければならないと同時に、政治が哲学の側からソクラテス的な吟味反駁を受けなければならないというプラトンの考え方が示されています。

 ソクラテス的「善美なるもの(カロカガティア)」は神的世界との連続性の中で語られ得ます。魂の世界からの審問に真に応えうるかどうかが試金石になっていると思います。現世に比重が置かれるとき、特に近代科学の成果に象徴されるような人間中心主義的現世肯定感の強い時代に、「善い人であるように心がけなければならない」を支えるものは何なのでしょうか。                         宮内寿子

 

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