宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「記録なくして処遇なし」

 稲葉峯雄さんの『石のぬくもり―人間学校・老人ホームから―』(1985年)を読み終わりました。措置、処遇という言葉がたくさん出てきます。行政による入所決定という措置に関しては、現在では利用者が福祉サービスを利用するという考え方に変わっています。もちろん、措置が果たした国内における等質の福祉の実現という役割を見逃すことはできません。介護保険制度(1997年)の導入は、高齢者福祉における国民の負担と制度の利用という方向への転換を要請しました。

 しかし現在でも、介護という仕事のイメージはなかなか良くならないのではないでしょうか。仕事が大変でその割に給与が低いと言われます。ただそれだけでなく、仕事の専門性が認知されていないことにも原因があるとも。

 稲葉さんは「記録なくして処遇なし」を主張し続け、職員の人たちにも実践してもらいました。仕事のきつさの上に記録を要求することの大変さを知りながら、それでもなぜ稲葉さんが記録を要求し続けたのか。記録の第一は、老人の言葉を聞き書きすることです。老人の言葉を短く、ありのまま書き留めてケース記録に残すこと。次にそれを振り返って所感を書くこと。そのことを通して、老人への人間理解や処遇内容を知らぬ間に深めているというのです。

 稲葉さんはまた、老人ホームにおける処遇とは老人の生活でなければならず、生活がホームという環境の中で生まれてくるには、記録が大きな役割を果たしていると考えています。そしてその実践を通して、現場で働く人たちに真の意味でのキャリアが身に付くし、誇りが確立されると考えるのです。

 寮母研修会での最後の言葉「老人ホームのイメージの様々なマイナス面は、そのままそこに働く職員にも汚染されたように付着します。それをいかに打破してゆくか、まずみなさんが自分の仕事にどんな誇りをもつかにかかっています」は、今なお課題です。

 稲葉さんは、記録とは自分にとっては「思う」ことだったとあとがきで書いています。その人を思い、自分を思い、ものを思う。そして人やものに出会うことができ、「そこに処遇がありました」。老人の言葉とは「私には神ではなくいのちでした。そのいのちの言葉を私は多く『老人の沈黙の言葉』の中に聞いています」と。生きている間にもう一度、お話ししたかったと心から悔やみつつ、2008年に逝去された稲葉峯雄さんのご冥福を心からお祈りいたします。合掌。           宮内寿子

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