宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

たまり場

 サロンやカフェという形で、色々な所で工夫しながら「たまり場」作りがされています。サロンもカフェも、一般のイメージとは異なります。私も「ジョブカフェ」と書いてあったのを見たとき、コーヒーショップかなあと思ったことがありました。

 今や哲学カフェやサイエンスカフェなどと聞いても、いわゆるお茶のみ場とは思わなくなりました。サロンもカフェも、人が集まれるような仕掛けですが、なぜわざわざこういう工夫をする必要があるのでしょうか。

 以前は生活の中に葬式や祭り、寄り合い、親戚同士の付き合いなど人が集まる機会が多かったと思います。隣近所は縁側で話してました。まち中の商店も人が立ち寄っては、お店の人や他のお客としゃべってたなあ。私の家は自営の米屋だったので、よそのおじちゃんが店先に座って、父としゃべっていた光景を思い出します。常陸多賀で小さな趣味のお店を開いている従姉のところは、お客さんや従姉の友だち、私たち従姉妹の「たまり場」になっています。

 たまり場はもちろん摩擦もあると思います。人が集まるところ、いさかいは付きものですから。そう言えば、私が子どもの頃、大人たちは結構喧嘩してたなあ。私はいさかいが嫌いですが、でも自分の言い分も曲げたくない、であんまりしゃべらなくなった気がします。

 たまり場は行きたいという気持ちを起こさせないとまずいでしょう。面白いと思う何かがあること、いさかいがあっても公正さが保たれていること、人と出会うこと自体が素晴らしいと思えることなど、そこにドラマがあると思えることが大きい気がします。

 それと同時に、疑問を感じるごとに疑問が出るごとに、たまり場の意義を確認することも必要だと思います。六ツ野自治会館で子育て世代と高齢者対象にサロンを主宰している牧野さんが、自分の子育て期の孤立感を話してくれました。四国の香川県から引っ越してきて、知り合いもない状態での子育て。たまり場の必要性を実体験していることが、16年以上に亘る牧野さんの活動を支えている気がします。それと香川はお遍路さんを接待する文化があると言っていたことも印象に残っています。誰かのために何かを当たり前にする下地があったのだと思います。それは生き甲斐につながります。

 何のためのたまり場なのか、どういうたまり場にするか、まだまだいろいろ考えられると思います。                           宮内ひさこ

h-miya@concerto.plala.or.jp