宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

コートールド美術館展

  昨日は仕事で東京へ行ったので、帰りに上野公園の東京都美術館で開催されていた「コートールド美術館展 魅惑の印象派」(2019.9.10-12.15)を見てきました。印象派という言葉と、12月15日まで、という二つが決めポイントでした。コートールド美術館というのは全然知りませんでした。でも、行って見て、大正解。マネの最晩年の傑作と言われる「フォリー=ベルジェールのバー」(1882年)には、引き付けられるように絵の前に立ち止まって、見入ってしまいました。

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 コートールド美術館は、ロンドン大学のカレッジの一つコートールド美術研究所のギャラリーで、1932年に開設されています。この美術館の創設者は、サミュエル・コートールド(1876-1947)という実業家で、レーヨン(人絹)で成功して莫大な富を築き、美術品の収集家としても知られている人です。ロンドン大学に美術研究所が創設されることが決まったとき、自分のコレクションを寄贈しました。研究所はコートールド美術研究所と命名され、コレクションの展示施設としてコートールド美術館が誕生したそうです。規模的にはそれほど大きくないのですが、作品の質は高いと言われています。実際、今回美術館の改修工事のため来日した作品は、どれも優れものでした。

 セザンヌの絵も何点か展示されていましたが、その解説も充実していました。また、ドガの「舞台上の二人の踊り子」(1874年)の左隅にちらっと見えるもう一人の踊り子のスカートとか、ルノワールが第1回印象派展に出品した記念碑的作品「桟敷席」(1874年)の奥の人物(作者の弟)がオペラグラスで見ている方向とか、音声ガイドや展示で指摘され、改めてじっくり見ました。

 私はこれまで、音声ガイドを使ったことがなく、さらっと流して見て、自分の気に入ったものはじっくりと、ただ見ていました。音声ガイドで解説を聞くのもいいかもしれないと思った経験でした。

 2時間くらいかけて見ましたが、なんかすごく満腹感がありました。

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                記念撮影コーナー

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外へ出たら、こんな光景が広がっていました。写真では上手く捉えられなかったのですが、結構おどろおどろしい風景でした。 

ニーチェ『ツァラトゥストラ』6:太陽と夜の歌

 自らを太陽に摸するツァラトゥストラは、贈与者として語り続けます。しかしその孤独も知っていて、それが「夜の歌」という詩になって迸り出ます。『ツァラトゥストラ』の第1部「ツァラトゥストラの説話」から第3部までのそれぞれの節の締めは、基本「Also sprach Zarathustra(このように、ツァラトゥストラは語った)」ですが、3つの節だけは異なっていて「Also sang Zarathustra(このように、ツァラトゥストラは歌った)」になっています。夜の歌はその中の一つです。

 夜の歌は印象的な一節です。これは贈与者の孤独の歌です。Z-N(ツァラトゥストラニーチェ)は、受け取ることの出来ない者、贈与し続けるしかない者として描かれています。そして、受け取るものがいない贈与者の飢えを訴えます。夜であったら自分も光をむさぼるように受け取れたのに。

 「わたしは光だ。ああ、わたしが夜であったらなあ! だが、わたしが光に取り巻かれていること、これがわたしの孤独である」(ツァラトゥストラ』Ⅰ-9、4

 Z-N(ツァラトゥストラニーチェ)が太陽に自分を仮託するのは、ゾロアスター教拝火教であり、太陽崇拝の宗教であったことと関わると言われます。それと同時に、この太陽は「ディオニュソス」に当てはまります。ディオニュソス vs. アポロの問題など、別に書きたいと思いますが、ディオニュソスに仮託したものは生と認識の根源的な統合と言えるでしょう。

  「おお、すべての贈与する者たちの、この上なき不幸よ! おお、わたしの太陽の日食よ! おお、熱望することへの熱望よ! おお、満腹状態における激しい飢えよ!」(ツァラトゥストラ』Ⅰ-9、10) 

 飢えて孤独な贈与者として、それでも、泉がほとばしり出る様に自分の中から熱望があふれ出るのを止めることは出来ない、とツァラトゥストラは歌います。なんという壮大な無駄でしょうか。そしてまた、受け取る側の魂にも触れられないこと、贈与し続けるものが羞恥心を失う危険を持つこと、贈与することに飽きてしまうこと、など。贈与することと受け取ることとの間の解離。贈与するだけの在りようの難しさや孤独が語られ、それでも贈与し続ける存在としてのツァラトゥストラ

 「わたしの目の涙とわたしの心の産毛とは、どこへ行ってしまったのか? おお、すべての贈与する者たちの孤独よ! おお、すべての照らす者たちの寡黙よ!」(ツァラトゥストラ』Ⅰ-9、18

 ツァラトゥストラは理想を抱かない凡庸な存在の幸福を、序説の5で、最後の人間の語る幸福として、激しく攻撃しています。「自分自身をもはや軽蔑することが出来ないもっとも軽蔑すべき人間の時が来る」と。今や、私たちの時代は、そういう時代に入っているのしょうか。現代は、自己肯定が盛んに語られている時代です。ただ、これは自己肯定感を自然に持てなくなっている時代とも言えます。となると、「もっとも軽蔑すべき人間の時」とツァラトゥストラが語った時代よりももっと悪く、脆弱になっているのでしょうか。

 そしてこの夜の歌は、次のように結ばれます。ここは「夜の歌」の最初の部分のリフレインになっています。

 「夜だ。いまや、ほとばしり出る泉のすべてが、一段と声高く話すのだ。そして、わたしの魂もまた、一個のほとばしり出る泉である。

  夜だ。いまや初めて、愛する者たちの歌のすべてが目ざめるのだ。そして、わたしの魂もまた、一人の愛する者の歌である。――」

 贈与する者の傲慢さに気づいている贈与者は、孤独であり、それでも贈与せざるを得ないというのは、何なのかなと思います。言葉がほとばしりでる、というのはよくわかります。その言葉を受け止めてくれる仲間や弟子のような存在が居ないことの孤独。夜の歌の節は、ツァラトゥストラニーチェの心の叫びです。『ツァラトゥストラ』は説教の形式をとりながら、その実、所々にこのような内省的なロマンチックとも言えるような節が挟まっています。そのことで、力への意志とか超人、永遠回帰の思想の論理を擬人的に描いているというより、魂の深みを除きこむ思いをさせられます。それをトータルにどう解釈していくか、解釈の難しさを感じさせられます。

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        (本文とは関係なく)11月17日 笠間神社の大いちょう

作ることと思い出すこと

 あっという間に11月が終わろうとしています。先週から、今週は特にあちこち出歩いているうちに時間が過ぎていきました。20日の授業の後、従姉妹会があって、会場のホテルに直行し、宿泊。23日、24日は仕事でした。24日は、小雨の中、施設の恒例の行事「さんま焼き」があり、さんまの値段が高いことに改めて驚かされました。

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             従姉妹会にて

 

 27日は、月一のお花の会で、クリスマス用の作品を制作。フラワーアレンジメント風の生け方で、オアシスを埋めるのですが、これが難しかった。普通に活ける場合は、花材を見て何んとなくイメージが湧くのですが、今回は「うーん」という感じでした。先生に直してもらって、なるほどこうなるか、で何とか形になりました。体験していないことから、何か自分なりのものを作ろうとしても、なかなか難しいです。記憶と創造のメカニズムには多くの共通点があるそうです。

 イギリスのオックスフォード大学の数学者ペンローズ教授は、「創造することは思い出すことに似ている」という仮説を立てているそうです。もう少しで証明できそうな数学の定理について考えているときの感覚が、度忘れした友人の名前を思い出そうとしているときの感覚に似ているとか。茂木健一郎さんは、コンピュータに何か新しものを創造させようとした時の「ジャンク」(意味のないもの)の多さに比べ、人間の脳から生み出される新しいものは、非常に効率がいいと書いています。コンピュータに新しいものを作らせるには、すでにある情報にランダムなノイズを加えるそうです。そうやって出来上がったものを人間が判断して、良いとか悪いとか選択するのですが、その際に大量のジャンクが発生する。これに比べ、人間の脳は記憶と関連させながら創造性を発揮しているかもしれない、というのです。つまり手あたり次第に何かを試して、新しいものに到りつくのではなさそうだということです。

 「記憶の想起のプロセスに、ほんのちょっとの変形や、編集を加えることで、歩留まりの良い創造性のプロセスが立ち上がっているのかもしれない。過去に学んだ意味の体系を受け継ぎつつ、新しいものを生み出すという創造性の秘密が、そこにありそうである」(茂木健一郎『脳の中の人生』中公新書ラクレ、33頁) 

 学びつつ創造していくには、指導するものの介入にもコツがあるでしょう。私たちのお花の先生は、決して「これでなければ」という言い方はしません。それでも、先生の手が入ると、俄然いいものに変わる。それは教えられる側にも分かります。自分ではできなくても、ある程度自分で苦労したからこそ、直されて「その違い」が分かります。

 また、先生によっても直し方にそれぞれの「くせ」があるかもしれません。以前付いていた先生方にも、やはり直してもらうと「なるほど」と思いました。それは今の先生とは、直し方もやはり少し違うかもしれないと思います。それぞれの先生の感性の違いや技法の違いなどがあります。私たちの中には、「よりよいもの」を判断する尺度はあっても、これが絶対という判断尺度は備わっていないのかもしれません。比較検討という尺度は、人間が生き抜くときには必要なものですが、「絶対」のものは必要ないとも言えます。「絶対」というのは人工的なものであり、カントが言うように理性の欺瞞性から来ているとも言えるかもしれません。

 新しいものを生み出させるためには教える側ができるだけ介入しない、あるいは場合によっては教えないで待つ方がよい、という考え方があります。でも、記憶にないものからの創造が本来あるのか、と考えると、学ぶことの、経験することの重要性が分かります。学ぶことは楽しい。それが続くことが大切なのでしょう。

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                27日制作のクリスマスのお花

新潟の高齢者支え合い活動

 新潟県で発行している『高齢者見守り・支え合い活動事例集』(新潟県福祉保健部高齢福祉保健課、2019年)を送って頂きました。2013年に事例集を作成し、今回は改訂版だそうです。新潟県の高齢化率が全国平均を上回っていることが、このような地域の住人同士の助け合いを推し進める原動力の一つになっているようです。

 新潟県のみならず、現代は、人口構成の変化や共同体の変質などで、地域で最期まで暮らすにはどうするかを、自覚的に自分たちで構築しなければならない時代だと思います。 

 新潟県では、「地域の茶の間」活動が盛んに行われていることを始めて知りました。「地域の茶の間」とは、子どもから高齢者まで、障害の有無や国籍などを問わず、誰でも参加することができ、それぞれが自分なりに時間を過ごせる居場所のことです。この「地域の茶の間」は、新潟市で制度外の有償助け合いサービスや居場所づくりを行っていた河田珪子さんが、平成9年(1997)に始めたことで誕生し、今や全国に広がっているそうです。
 高齢者にとって、「地域の茶の間」は関係性の回復に役立つと、その意義が語られていました。私たちは社会生活をする中で、自分より上(会社の上司など)、自分の横(同僚や隣近所、奥さんなど)、自分より下(子どもや部下)というような関係性を持っています。それが退職し、介護されるようになると、関係性が家族に限定され、かつ、奥さんや子どもが自分より上の存在のように感じるというのです。そこで「横と下の関係性を回復させよう」というフレーズが出てきます。地域の子どもたちをそばに連れて行ったり、自分の得意だったことを教える相手を作ることで、横と下の関係性を回復させることが出来る、というのです。これは成程なぁ、と納得しました。
 私も、高齢者と子どもは魂の構造が近いと思っていて、両方が一緒にいることで互いに刺激しあったり、助け合ったりできると考えていました。関係性の変化が持つ喪失感をどういう風に補ったらいいのか、という点から、地域の集まりの目的設定をすることは、支え合いシステムを作るときに重要だと思いました。
  「住み慣れたところで、少しだけ助けてもらえれば住み続けられる」、そういう思いはこれから日本中で課題になっていきます。ひたちなか市は、高齢者サロンは幾つかありますが、コミセン等を利用した活動です。空き家等が増えている現状で、寄りなせ「あいあい」(常設型地域の茶の間)のような活動は、参考になります。最初は月一回、地区の公共施設で開いていた「地域の茶の間」が、一軒家を借りて、ほぼ毎日茶の間を開くまでに発展しました。基本は、やろうとするメンバーが何人かで協力する体制を作れるかどうかなのだと思います。最初は、やはり月1回くらいの集まりから始めた方がいいと思いました。まずは、小さく始めること。
 地域共生型デイサービスよいさ、も面白い活動だと思いました。デイサービスでの過ごし方は、基本施設側がプログラムします。利用者さんにとっては、どうなのだろうと、今も考えています。レクのときは、自発的に動いてくださる利用者さんもいて、レクの重要性を認識しました。ただ、自立援助というなら、もっと根本的な自発性の喚起が必要だろうと思います。
 すべてのデイサービス、施設生活がこういう形で、というのは無理でしょうが、「自分の暮らし方は、自分で選ぶ」が基本になっていくことが望ましいです。そのとき、やはり「自分で」をどれだけ周りが引き出し、支援できるかなのだと思います。それが「当たり前」になっていくには、「よいさ」のような拠点が幾つかそれぞれの地域で活動実績を上げる必要があるのだと思います。
  気心が知れた関係だけで集まるのでは、「場」はこれからは維持できないと思います。誰でもが入ってこれることの問題性もあるのですが、かと言って知っているもの同士だけの関係性で、「場」は維持できるのか。この辺りは、これからの課題だと感じています。行政が、地域の「場」の形成に積極的に関わる意義も、この辺りに関わっているのかもしれません。

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「杜の仲間たち」(地域支え合い活動 in 東海村)

 昨日、東海村内宿一区集会場で開催された「杜の仲間たち」の集まりを覗かせていただきました。地域支え合い活動(介護予防)事業として、全員参加型の運営で行われています。

 活動は11月は12回予定されていて、昨日で6回目が実施されました。5回目は公的行事のために中止されています。会員は100名を超えているとか。班も5班か6班作られていたと思います。それぞれの班が、交替で担当して、お茶当番や会場の設定を受け持ち、男性もお茶出しをして参加していました。70代の男性がお茶当番するのは、本当に全員参加型なのだと、感心しました。

 昨日の集まりでは、体操や童謡を歌ったりゲームをするグループと、マージャンをするグループに分かれていました。午後1時から4時半くらいまで開かれているようで、途中でお茶休憩があり、そこで皆さんはおしゃべりを楽しんでいました。30人以上の方が参加されていたと思います。男性と女性の比率は、1対2くらいでしょうか。男性陣はほとんどマージャンをしていました。卓球をやる会もあり、また手芸講座や木目込み講座をやる会もあるようです。講師は会員が担当。

 会計を担当し、立ち上げの中心的存在の女性からいろいろお話を伺いました。民生委員としての活動の中で、新潟県長岡市の地域支え合い事業を視察して感銘を受けた話も伺いました。

 長岡市には「ともしび運動」の長い歴史があります。これは昭和26年に設立された社会福祉協議会が中心になってきました。「ともしび運動」としてのスタートは、昭和63年で、運動を支える市民参加型基金として「ともしび基金」が作られています。報告書を見てみると、例えばご近所・地域のつながりを作っていくためにどうするかということを、取り組み主体を地域(住民)、地域の行政単位としての活動、市、というレベルに分けて細かくその事例や実施事業を挙げています。

 住民同士の挨拶や会話、会話による情報交換、地域行事への積極的参加、そういう住民が集まれる機会づくり、公民館(コミセン)等の維持管理、地域や住民主体の活動支援、コミュニティ活動の推進などが取り組み内容として挙げられています。

 地域による取り組み例には、個人や商店など事業所の職員による日常の見守りもありました。そして市の側からは、高齢者を見守る応援者に、「シルバーささえ隊」のステッカーや機関誌などを配布して、「シルバーささえ隊」を普及啓発をすることで対応しています。また、市の職員が、(コミュニティカフェのような)地域の集まりに出向いていって、地域ごとのニーズを聞きとる、というような施策も提言されています。

 家族規模が縮小している現在、地域で最期まで暮らしていくためには、地域の支え合いのシステムを作る必要があります。みんなそれが必要だということでは合意するのですが、じゃあどうするか、というところで足踏みします。まぁ、行政が何とかしてくれるんじゃないか、施設でお世話になればいいんじゃないか、元気なうちは自分たちのそれぞれのやり方で楽しんでおこう、となります。

 「杜の仲間たち」を立ち上げたメンバーの中心的存在の女性が、定年後の人生をそれぞれに謳歌されて、「70歳代後半になって行動範囲が縮小されてから、地域の方々との交流は大変難しいように思います」とおっしゃってました。これは、その通りだろうと思います。いきなり地域の人たちと一緒に、と言っても、それまで共に過ごしながら関係が築かれていないと、特に年をとるほどに、それまでの自分なりのやり方や感じ方を調整していくのは難しいと思います。

 楽しみながら、身近にいる人たちと関係性を築いていくことは、生活の安心や心の安定に重要だと思います。時間をかけながら、少しずつ、そういう地域になるように何ができるか、考え行動して行けたら。

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                   散歩していて見つけた菊

晴れた日に

 今日はほぼ快晴の空。空の青さに叫びたくなるほど気持ちの良いお天気でした。海岸まで散歩して、マリンプールにたくさんの水鳥が集まっていたのを、スマホで撮りました。かなり距離があったのですが、カシャッという音に水鳥たちが一斉に飛び立って場所を移動したのに驚きました。

 最近読んでいる『複雑さに挑む 社会心理学』(有斐閣アルマ)の中に、感情は「野生環境」へ適応するために生物が進化の中で、完成度を高めてきた心の働きだ、という解釈がありました。例えば、野生環境では「恐れ」という感情に動機づけられて即逃げる方が、冷静に事態を分析し、自分の現状を顧みてどうするか判断し行動する、なんてやっているより、生き延びる可能性は高い、ということです。カシャ、で一斉に飛び立って場所を移動した水鳥たちを見て、なるほどなぁと思いました。

 さきの箇所には続きがあって、文明化した環境の中で「恐れ」の感情に基づく行動が起こるとパニックが生じるとあります。確かに、あの水鳥たちが、建物の中で、一斉に飛び立ったら、窓や天井にぶつかってしまうでしょう。窓が少し開いていたとしても、そこから整然と隊列をなして一斉に飛び出していくとは考えられません。

 パニック状態が生じたとき、もう少し冷静に行動すれば、とよく後から反省の言葉が語られますが、逃走することを導くことに恐れの感情の意義があったとするなら、そもそも無理な話です。

 「野生環境で獲得した感情という適応的プログラムは、次の進化が生じるだけの何十万年という時代を経なければ変わることはむずかしいでしょう」

 そうだろうなぁと思います。私たちも長い時間を経て進化してきた動物なのだということ、いろいろな能力を獲得してきた中で、現代人は、大脳新皮質に依存した生き方に価値を置きすぎているなぁと思いました。

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             驚かせてごめんなさい

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       夕暮れのジョイフル本多とファッションクルーズの屋上から

ニーチェ『ツァラトゥストラ』5:10年の隠遁

 今日は雨降りで一日が始まりましたが、昼過ぎころから陽が射したりし始めました。一日曇りか雨かと思っていたので、陽が射すと嬉しいです。夕方にはまた小雨が降りました。

 『ツァラトゥストラ』序説は、彼の10年間の隠遁とその終わりの時が来たことを告げることで始まります。ツァラトゥストラは、アヴェスター語表記Zaraθuštra(ザラスシュトラ)をドイツ語読みしたものです。日本では古代ギリシア語での呼称ゾーロアストレースに由来する英語名の転写ゾロアスター(Zoroaster)の名前で知られています。

 この伝説のゾロアスターが実在したことは事実のようですが、その生没年代や活躍時期には定説がありません。紀元前1200年から前600年頃に生存したと言われます。神官一族の家に生まれ、20歳ころから放浪の旅に出て、30歳ころにアフラ・マズダの啓示を受けて聖典『アベスター』を書き、布教活動に入りました。40歳代でイラン王の宮廷に招き入れられ、ゾロアスター教ササン朝ペルシア(紀元後3世紀)で国教になり、イスラムが7世紀前半にイランを征服するまで続きました。古代ギリシアでも知られていて、またユダヤ教を経てキリスト教にも影響を与えています。3世紀から4世紀頃に、ソグド商人が中国にも伝えて、拝火教(祆教けんきょう)と言われます。

 世界を善悪二元論で捉え、最終的に最高神アフラ・マズダによって、善の勢力が勝利を収めます。そしてゾロアスター教には最後の審判の考え方があります。世界の終焉後に、人間が生前の行いによって天国か地獄へと振り分けられるという信仰です。キリスト教イスラム教に特有の概念ではないのですね。

 しかし、なぜニーチェはわざわざゾロアスターを主人公に本を書いたのでしょうか。ディオニュソス的なものを表現したかったとするなら、なぜゾロアスターなのか。ニーチェは『この人を見よ 人はいかにして自分が本来あるところのものになるのか』の「ツァラトゥストラはかく語った」で、次のように述べています。

  「ツァラトゥストラその人が、典型として、私の念頭に浮かんできた、いやもっと正しい言い方をすれば、彼が私を襲ったのであった‥‥」

 ツァラトゥストラは10年山籠りをしますが、ここにはイエスの40日間の「荒野の誘惑」――公生活に入る前に必要な経験――の物語に対する対抗意識が働いている、と吉沢伝三郎さんは訳註で書いています。イエスは未熟であったと言いたかったのだと。ゾロアスターの10年の彷徨が下敷きになっていると思いますが、ゾロアスターは30歳で布教を始め、ツァラトウストラは40歳という成熟した年齢で説教を始めます。ツァラトゥストラの没落の物語の初まりから、いろいろな背景設定が含み込まれていることが分かります。それもおそらく一瞬にして結実した設定が。

h-miya@concerto.plala.or.jp