宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアにおける主観的関係性

 ケアリングに決まった形はない。それはその通りだと思います。ただ、望ましい在り方はどういうものか、それは考える必要があります。

 ケア対象者が、30分毎にトイレ介助を要求するとき、それに一人で対応するには無理があります。かと言って、無視することもできない。ケアする側とケアされる側の関係性が悪くなくても、ケアする側は疲弊します。複数の人間での対応と言っても、現実には難しいものがあります。

 ケアの倫理を主張するネル・ノディングズは、道徳の普遍原理の考え方――同じ状況にいる他者に対しては同じように振舞うべき――が、自己と他者との関係性の捉え方を抽象的なものにしていると批判します。それゆえ客観性や公平性、原理の問題をケアの倫理は重視しないと言のです。しかし、同じ状況にいる他者に対して同じように振る舞えという考え方が抽象的であると拒否したとして、そこからどういう対応が考えられるのでしょうか。

 ノディングズはケアリングの動機を「ケアされるひとの福祉や、保護や、高揚に向けて方向づけられる」と言います。それゆえケアすることは、「定まった規則によってではなく、愛情と敬意によって行為すること」であり、状況によって「変化していくもの」であると。それはその通りだなぁと思います。では、愛情と敬意が持てない対象へのケアは、無理があるということでしょうか。また、愛情と敬意があっても、それだけでは適切な行為には連結しないのではないでしょうか。思いだけが空回りすることもある。ここが難しいし、問題なのではないでしょうか。何らかの客観性や公平性が必要になります。そこをどう考えていくのか。

 それはそれとして、ケアの現場に居ると、具体的場面における体力や気力がいかに重要か、それを思い知らされます。

ケアリングの客観性

 今日も曇り空です。梅雨はいつ開けるのか。気温は丁度過ごし易いのですが、何となくじめついていて、洗濯物が乾ききらない。ヨーロッパが猛暑というニュースを今朝やっていました。異常気象の影響だとか。

 さて、介護の現場に7月1日から復帰しました。前の職場とは別の組織なので、覚えることが沢山あります。まずは、やり方をまねることから始める必要がありますが、利用者さんも多様です。今度の職場は、サービス付き高齢者向け住宅いわゆるサ高住に併設されたデイ・サービスです。デイにやってくる皆さんはサ高住の住人で、認知症の初期症状を持つ人もいれば、身体に問題を抱える人もいて、一緒にデイ・サービスにやってきて時間を過ごします。

 デイ・サービスではお風呂と食事、レクリエーションが提供されます。すでに利用者さん同士の人間関係ができていて、その関係性もいろいろ教えてもらっています。前の職場は、初期の認知症の人たちのデイ・サービスでしたから、送迎がありました。今度の職場には、それはありません。もっとも私は、9時出勤だったので、朝夕の送迎はしていません。ただ、他の部署の昼間の送迎は回ってきました。送迎は、雨の日などは大変ですが、ただ利用者さんにとっては、それだけで、気分転換にはなっていたのかもしれません。利用さんの関係性の認識と同時に、利用さんをどう解釈していくか、改めて自分に問い直しています。

 ケアリングではいわゆる主客二分論は成立しません。科学的な客観的認識態度、すなわち対象から距離を持って、冷静に観察し判断し評価するという認識態度は、科学的認識においても共感の意義が言われる現在、吟味の対象になっています。しかしケアリングにおいては、関わりつつ認識しているわけで、単純な主客二分論は最初から否定されています。私の関わり方が、相手のレスポンスを引き出し、私の評価判断が生じ、また、私への相手の評価判断を引き出しています。

 そこで問われるのは、いかにして妥当な行動が実現するかであり、その妥当性を担保する新たな<客観性>概念の探求が求められます。単に共感からの行動ではなく、コミットメントとしての行動の問題としてケアリングを考える場合、客観性の担保は避けて通れない問題です。利用者さん同士の関係に関わるとき、「やりすぎだろう」というような応答関係には、スタッフが介入していきますが、そこでの客観性は、単純な社会的関係における善悪や礼儀を基準にできない場合があります。

 ケア関係は、基本的に主観的関係と言えます。ノディングズは、ケアリングの本質的な部分を、他の人の実相(reality)を理解すること、できるだけその人が感じるままに感じること、可能性としての実相を引き受け、ある期間を通してその実相に関心を持ち続け、それに応じた関与の仕方を更新してゆくことと述べています。

 なぜそういうことが可能になるかと言えば、それは私たちの主観の成り立ちが、間主観性にあるからではないでしょうか。そこに、妥当性や客観性がいえる根拠があると思います。取りあえず今日はここまでにします。

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                気分休めにネモフィラ

存在給で生きる

 存在給というのは、「人はいるだけで価値がある」という考え方だそうです。この「いる」ことを基本に考えるとき、次に「いる」とはいかに(どういう風に)「いる」かがテーマになってきます。老いの問題とは、この「いかにいるか」の問題かなと思っています。

  「老いるとは楽しむこと、耐えることではない」といったのはオーストラリア連邦政府・高齢者ケア省(1998年当時)のブロンウィン・ビショップ大臣でした。彼女が当時書いた、オーストラリアの高齢化への国家戦略の趣意書の最後の一文だそうです。

 「レンタルなんもしない人」が話題になっているとか。私も気になって、ちょっとネットで見てみました。一番気になっていたのは、生活どうしているのかなということ。なんと貯金があるので今のところ問題ないとか。結婚していて、お子さんもいる。

 生活のために働いている人が大勢いるなか、(゜-゜)まあ、贅沢な選択肢なのかぁ。でも、お金稼ぐために社会とつながっていた現役世代が、そこから降りた後、何したらいいのか戸惑う定年世代になる。定年世代にとっても、一つの生き方の提示なのかもしれませんね。「レンタル何もしない人」はまだ35歳。ハイスペックな男性です。存在給で生きるという生き方、なるほどそれもありか。 

ダイバージョナルセラピー(DT)

 千葉県看護協会の「第38回認定看護管理者教育課程ファーストレベル」の統合演習Ⅰで、相手に伝わる文章表現について、2回に亘って授業しました。授業は楽しかったです。受講生が、看護師としてのキャリアが皆さん15年くらいはある方たちなので、問題意識を持って学びに来ていました。

 統合演習Ⅰの後半部分を担当される先生から、社会福祉法人ユーカリ優都会の「福祉の街づくり」構想とその展開の状況を教えて頂きました。佐倉市でなかったら、早速見学に行きたいと思いました。ユーカリ優都会の環境に触れたいというだけでなく、そこで行われているダイバージョナルセラピーの取り組みに惹かれたからです。

 ダイバージョンは「気分転換・気晴らし・道をそれる」という意味です。ダイバーシティは多様性、盛んに言われている言葉ですが、ダイバージョナルセラピーという言葉は初めて知りました。「老いるとは楽しむこと、耐えることではない」といったのはオーストラリア連邦政府・高齢者ケア省(1998年当時)のブロンウィン・ビショップ大臣でした。彼女が当時書いた、オーストラリアの高齢化への国家戦略の趣意書の最後の一文だそうです。

 人生の最期の理想は、ニーチェの「遊ぶ子ども」ではないかと思い始めた私にとって、このオーストラリア生まれの、レジャー・レクリエーションを通して幸福感を導き出し心身の機能を回復する手法は、これだという思いを抱かせました。

 介護の現場でレクの持つ力は実感しています。私自身も楽しくなるし、利用者さんも楽しんで積極的に活動します。ともあれ、介護の場では楽しさの持つ力をもっと活用する必要があると思っています。

思想を身体化すること

 参議院議員選挙が7月に行われます。選挙が来るたびに「地方自治の本旨とは」と考えますが、終わると次の問題に行ってしまいます。教えるという場面でも、あるテーマを一緒に考えますが、やはり授業が終わるといつの間にか忘れています。脳はもともと飽きっぽいそうです。でも考えていたことは、何らか身に付いているのでしょうか。その意味でも、シュタイナー教育のカリキュラムのつくり方は、考えさせられます。

 エポック方式の基本授業(8時から10時)という形態は、集中と交替、頭から入れたものを体に浸透させるという考え方を取っています。4週間から6週間がひとつのエポックになっていて、その間は、例えば書くエポックならずっと書くことが続きます。次の計算のエポックになると、計算だけが続けられて、書くことはお休みしています。これは子安美知子さんの『ミュンヘンの小学生』(中公新書、1975年)で紹介されている例なので、他のシュタイナー学校が、時間設定や期間設定が全く同じかどうかは分かりません。ただ、このエポック授業やフォルメン、オイリュトミーは、シュタイナー教育の基本原理なので、集中と交替の原則は外せないものです。

 何かが分かるとかそれが身に付くというのはどういうことか。ただ言葉だけで思考しても、無理があります。かと言って経験だけでもだめで、それをどう言葉につなげていくか。介護の現場を離れて6か月になります。最初の課題であった「相手の世界にお邪魔する」ということがどういうことかの感触は、何となく分かった気がします。そして、お世話させていただくという精神を、介護士教育の現場で繰り返していた意味も。そして、漸く次の課題が見えてきた気がしています。

 介護という日常の繰り返しの中で、惰性化してしまいがちな業務をどうリセットしていくのか。「遊び」の心をどう生活の中に浸透させていくのか。ニーチェは、精神の三態の変化を「ラクダ、獅子、子ども」と描き出しました。最後の子どもは、遊ぶ子どもです。人間の老年期とは、この遊ぶ子どもに戻ることなのかもしれない、と思っています。でもそれはどういうことなのか。そして、介護とは何か。また手探りしてみたいと思い始めました。

千葉公園 はす祭り

 週末のお天気外れがまた来そうです。今日も曇りのち一時雨の模様。それでも曇りで風があるので、それほど暑くなく、畑の草取りには最適です。地震があったり、刃物をもった逃亡者が出たり、老後年金だけでは暮らせないという試算が公表されたら、そういう報告書は受け取れないというやり取りがあったり、とあまり心が弾むニュースは聞かれません。ニュースになるものは、そうかもしれませんが。

 火曜日に千葉で仕事があり、前日千葉に一泊しました。せっかくなので、千葉駅から徒歩10分くらいのところにある千葉公園に行ってみました。駅からほどよい近さで広い公園があって、ちょうどはす祭の時期でした。夕方でしたが、結構人が集まっていました。こういう思わぬひと時は癒される時間です。帰りがけに、近くのチーズ専門店で、リゾットを食べました。美味しくて、思わず微笑みが出てしまいました。

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「ハインツのジレンマ」を考える 1回目

 ローレンス・コールバーグ(1927-87)という 心理学者がいます。彼は道徳性の発達段階論を提示し、日本の道徳教育にも影響を与えた人です。彼は道徳的ジレンマ状況を設定して、それに対して被験者がどういう理由づけをするか、その理由づけがどう変化していくかを30年に亘って追い続けました。最初の対象者は白人中流の男性たちでしたが、後に、異文化や女性にも適用可能かどうかを調べるために実証研究を行うようになります。

 道徳的認知構造がどう変化していくかを調べるのに使った道徳的ジレンマの一つが下の「ハインツのジレンマ」です。

 

ハインツの葛藤場面 ヨーロッパで、一人の女性が非常に重い病気、それも特殊なガンにかかり、今にも死にそうでした。彼女の命が助かるかもしれないと医者が考えている薬が一つだけありました。それは、同じ町の薬屋が最近発見したある種の放射性物質でした。その薬は作るのに大変なお金がかかりました。しかし薬屋は製造に要した費用の十倍の値段をつけていました。病人の夫のハインツはお金を借りるためにあらゆる知人をたずねて回りましたが、全部で半額しか集めることができませんでした。ハインツは薬屋に、自分の妻が死にそうだとわけを話し、値段を安くしてくれるか、それとも、支払いを延期してほしいと頼みました。しかし薬屋は「だめだね。この薬は私が発見したんだ。私はこれで金儲けをするんだ」と言うのでした。そのためハインツは絶望し、妻のために薬を盗もうとその薬屋に押し入りました。

  ハインツはそうすべきであったか。またその理由は。

 

 これに対して賛成か反対かは重要ではなく、その理由づけが重要なのです。その理由づけの構造を、コールバーグは三水準六段階に分けました。このジレンマ自体にももちろんいろいろ疑問はありますが、とりあえず今日はここまでにします。

h-miya@concerto.plala.or.jp