宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「自分で」は「一人で」ではない

 あっという間に、31日です。23日に「千葉・茨城教授学研究の会」の春合宿があり、参加しました。発表の時間をもらい、「吉野源三郎君たちはどう生きるか』をめぐって」と題して話しました。私の中でも、どう提示していいのかわからないままの報告になってしまい、聞いてくださった方たちも戸惑ったと思います。

 授業に関する報告というのは、やってきませんでした。桜美林大学でメディア専攻の科目を担当していたとき、学期末毎に研修会がありましたが、簡単に自分の授業報告をする形式でした。「千葉・茨城教授学研究の会」のような、授業の具体的一場面を取り出して、参加者みんながああでもない、こうでもないと言い合うようなものは、やったことがありません。

 林修さんがある番組で、「皆さんで一緒に考えてください」との講師の人からの指示に、「僕それが一番苦手です」「考えるのは一人です、と子どものころから言ってました」というようなことを言ってました。まあ、確かに「自分で考えなさい」とよく私も言います。でも、ああでもない、こうでもないと話し合っているとき、それはやはりみんなで考えている。どこまでが自分の考えで、ここからはほかの人の考えで、なんて振り返るのは、後から、一人になったときです。

 メルロ=ポンティの『知覚の現象学 2』の中に、対話は一つの織物を織りあげる経験であると述べている、次のような一節があります。

 「現在おこなわれている対話においては、私は自分自身から解放されている。つまり、他者の考えはたしかに彼の考えであり、それを考えているのは私ではないのだが、私はそれが生まれるやいなやそれを捉え、むしろそれに先駆けてさえいるのだし、同様に、相手の唱える異議が私から、自分が抱いていることさえ知らなかったような考えを引き出したりもするのであり、こうして、もし私が他者にさまざまな考えを考えさせるのだとすれば、他者もまた私に考えさせているわけである」(219-220頁)

 他の人の考えと自分の考えがたがいに触発しあって、化学変化を起こしていく。「千葉・茨城教授学研究の会」の合宿の中では、時にそういうことが起こっています。

 27日は生け花の集まりでした。ここでもやはり自分一人では作れない作品ができます。もちろん先生の力が大きいのですが、他の人たちの作品からの刺激も大きいし、ヒントもいただけます。なるほど、こういう高さと色の組み合わせにするといいのか、と自分の作品に生かせるものは生かします。同じ素材の場合、アイディアを頂戴する形になってしまいそうですが、それがそうはなりません。独自性とか独創性とか、確かに大切ですが、それは他の人の意見や作品から触発されることを拒否するものではありません。

 「一人で」と「自分で」は別のことですが、つい、「自分で」は「一人で」のことと思いがちです。私は、「一人で」に拘りすぎていたかなぁ、とこの頃、思います。

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私の作品(モンステラフリージア、スイトピー 、雪柳)     Hさんの作品(花材は同じ)

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          Kさんの作品。お生花(しょうか)です。

介護士って?

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         2019年3月18日 弘道館公園 今がまさに盛りで圧倒されました。

 今日(20日)は晴れて暖かく、春というより初夏に近いようです。でも、週末は一気に10度くらい下がるようで、体調管理気をつけないと風邪ひきそうです。少し、のども痛むので。

 介護士の仕事って何なのだろうと、折に触れ考えています。子どもの放課後デイなどでも介護士の資格が活かせます。養護教員から話を聞いていると、介護士の仕事と重なる部分が多い。介護士というのは要介護者の生活の伴走者だと思います。教育でも、古代ギリシアでは子どもに就き添いながら躾をする教僕(パイダゴゴス)という存在が居ました。教育の原点には、伴走者という発想があるのではと思います。

 カントは『教育学講義』の冒頭で、「人間とは教育されねばならない唯一の被造物である」「人間は教育によってのみ人間となることができる」と言います。この人間とは、カントの根本の三つの問い「私は何を知りうるか?」「私は何を為すべきか?」「私は何を希んでよいか?」(純粋理性批判)が収れんされる第四の問い「人間とは何であるか」(『論理学』)の「人間」のことです。「私」が主語の3つの問いが、「人間」が主語の問いに収れんされることへの疑問は、カント研究者が言及していますが、私も、突然問いが飛んだという感じがします。ここはこれからも考えなければならない問題だと思います(やはりカントは戻っていく何かだと感じています)。

 ともあれ、教育も介護も根源的問いとして、「人間とは何か」があると感じます。そしてその実践には、伴走者としての側面があるのではないでしょうか。 

『感動する脳』

 茂木健一郎さんの『感動する脳』を読みました。改めて感情や感動の、生きる上での大切さを理解できました。

 人間の脳は感動することで活性化されます。その感動はどこから生じるかというと、「意外性」と「なつかしさ」だと言われます。そして、感動が生まれるには空白が必要です。茂木さんはギャップ・イヤーの例を挙げます。これはイギリス貴族のグランド・ツアーが発祥だそうです。

 グランド・ツアー(Grand Tour)は、17-18世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、学業の仕上げに行った私的な長期の外国旅行のことです。一種の修学旅行とも言われますが、そうか修学旅行の発祥はグランド・ツアーだったんだと思います。なんか全然別ものですが。グランド・ツアーの目的は見聞を広めることであり、数か月以上をかけて、家庭教師が同行しての旅行だったようで、トマス・ホッブズアダム・スミスも同行家庭教師をやったようです。

 ギャップ・イヤーというのは、高校を卒業してから大学に入る前に、約一年間どこにも属さずに過ごす時間で、イギリスでは普及しているようです。その間、ボランティアをしたり旅行をしたりして過ごします。日本ではこの選択肢が少なく、リスクを伴います。一度軌道からそれるとなかなか戻り道がないし、戻ったとしても空白の時間がマイナス評価されがちです。どうも怠けていると評価されるようです。この空白の時間をどう使うか、それは個人に任されていますが、それを評価する哲学も指標もないようです。

 茂木さんは、人間の脳が感動したり、創造性を生みだす上で、空白の時間を持つことはどうしても必要なことだと言っています。ところが、これが日本の社会にはなかなかなじまないし、定着するまでにはかなりの意識改革が必要だろうとも。日本人は、具体的な目的を設定して、それに邁進していないと不安になるようです。

 サラリーマンが定年になって空白の時間を持て余す、というのはよく聞く話です。大いなるギャップ・イヤーを手に入れたとはなかなか考えられない。ボランティアも趣味もどうも義務化して仕事化してしまう。そのものを感動するために使うのが下手。思い当たります。

 介護の現場に入って、最初はとても新鮮で刺激を受けました。1年を過ぎる頃から、どうも義務化してきて、身体的にも疲れが出て、2年を超えた辺りで休みを取ることにしました。でも、講習会などに出ると、なつかしく楽しいのです。介護の場にある人の近さが、人間関係の原点だからかもしれません。

 茂木さんは、若い頃のギャップ・イヤーは仕事におけるキャリア・アップに役立つが、定年後のそれは、ひたすら脳のキャリア・アップを目的にすればいいと言います。脳は生きている限り成長を続け、たとえ身体が動かなくなっても、脳は鍛え方次第でどんどん進化する。この人間に与えられた能力を使わないのは損だと。その通りです。そしてそのためには、「感動する」ことが大切だと。

 人間の人間たるゆえんはどこにあるのか。ヨーロッパの思想は、魂とかこころ、精神特に理性や考える能力を重視してきました。その反動というか、反省から身体への着目がされるようになりました。それと同時に感情の重視も出てきました。

 人間は複合的存在だなぁと改めて思います。脳科学という現代の最先端の科学領域が解き明かす人間のあり様。そして脳は進化し続けるという事実は、やはり希望を感じます。

「ふくし職慟」

 12日と15日に茨城県福祉人材センター主催の「ふくし職慟」講座に参加しました。12日は「排泄の仕組みとオムツの使い方」、15日は「移動・移乗介助」でした。両方とも、なるほどがありました。

 「オムツの使い方」では、どういう風にあてることでピタッと収まるか、納得しました。ただこれは、何度も実際にやって習得していく部分が重要で、講座でやって何とかなったから大丈夫ではありません。それにしても、子どものオムツ、ちゃんとあてられていなかったなぁ、今更ですが。

 15日の「移動・移乗」も目から鱗でした。基本は利用者さんの状態やそのときの道具等の状況に合わせて動くということでした。講座では、軽度の介助で済む人の例で実践しました。その人に残っている力を使いながら、ベットから車イスへ、横にスライドするように移乗を助けるというやり方です。ただし、介助者側がその動きが苦手な場合は、従来教えられているような、立ってもらってから、向きを変えて車イスに座ってもらってもいい。

 ただどちらの場合でも、利用者さんの足の間に介助者が足を入れるのは止めた方がいいことを教えてもらいました。介助者の外側に利用者さんの足が残ってしまうと、残った側への配慮が欠ける可能性が高い。これはその通りです。それと介助者の足先の向け方も、不必要に体をひねらないように、片方は移乗するイスの方向に向ける。

 身体の使い方が理に適っているほど、利用者さんも介助者も負担が少なくて済みます。講座では2人一組でやってみましたが、現場では利用者さんそれぞれの状態に合わせて動く必要があります。ポイントを押さえた上で、これも身体で覚える必要があります。

 現場では忙しさもあって、何とか凌いでしまうと、対応回数が少ないものは忘れてしまって、振り返って教えてもらうことができていませんでした。しかし自分の中に、疑問が溜まって行く感じはありました。対応回数が多い場合でも、基本的なことを整理して学ぶ機会は、自分で見つけないとありません。

 座学だけだと、おそらくそれらの知識は意味が分からないので定着しなかったろうなぁとも思いますが、実践だけだと疑問が解決しないままになってしまいます。この辺りのバランスの難しさを感じます。シュタイナー教育の理念の一つに、頭から入ったものは身体へ、身体から入ったものは頭へ、というのがあります。私たちが生きるということは、本当にそういう全体的な行為なのだと思います。

「心の理論」

 今日は暖かな一日でした。夜遅くになって雨が降ってきましたが、いかにも3月初春の一日でした。

 さて、他人の心を読み取る能力は共感する能力に起因するのでしょうか。共感する能力は人間だけでなく、広く他の動物にも見られます。一頭のシマウマが捕食者に怯えて走り出すと、群れの他のシマウマも一緒に走り出します。しかし他者の気持ちを読み取る能力である「心の理論」は、人間だけが持つと言われています。大体、3歳~4歳くらいで獲得されますが、この「心の理論」を検証するために使われるのが、誤信念課題です。

 誤信念課題とは、例えばこういうものです。①春子ちゃんが人形で遊んでいて、その人形をおもちゃ箱にしまって部屋を出ます。②秋子ちゃんが入ってきて、おもちゃ箱から人形を取りだして遊び、その人形をクローゼットに隠して部屋を出ます。③春子ちゃんが戻ってきて人形で遊ぼうとします。④この一部始終を見ていた子どもたちに、春子ちゃんはどこを探しますかと質問します。

 正しい答えは、おもちゃ箱の中。春子ちゃんは、人形がクローゼットに隠されたことを知りませんから、おもちゃ箱の中にあるという誤信念を持っています。当然、おもちゃ箱の中を探します。劇を観ていた子どもたちは、現実には人形がクローゼットの中にあることを知っています。でも、春子ちゃんは知りませんから、おもちゃ箱の中にあるという間違った信念を持っているはずです。これを、子どもたちが理解できるかどうかをテストするのが、誤信念課題なのです。通常4歳程度で、正しく答えられるようになりますが、改めて考えてみると、すごいことです。

 4歳くらいで、人が現実と異なった内的心理状態(心の世界)を持つことを理解するようです。この誤信念課題にチンパンジーは正解できません。自閉症児も正解できないようです。自閉症には様々なタイプがあり、アスペルガー症候群と呼ばれる比較的軽度の自閉症のタイプは、社会的コミュニケーションなどに問題を持ちますが、知能指数は平均かそれ以上と言われます。誤信念課題で問われているのは、目に見えない相手の心の状態を「表象化」して取りだす能力です。自閉症の人に欠けているのは、表象化能力ではなく、相手の心的状態に感応する無意識のプロセスのようです。

 つまり、誤信念課題でテストされている能力は、一つは相手の心の状態に共感する無意識の働きであり、もう一つはそのような共感の働きを明確に表象化する能力です。これらは外界から入ってくる感覚的クオリアに、様々な解釈を貼り付ける志向性の働きですが、共感を支える志向性と表象化を支える志向性の働きに分けられます。この両者が結び付くことで「心の理論」が可能になる、と茂木健一郎さんは言います。

 「チンパンジーが『心の理論』の存在を検証する誤信念課題に合格できないのは、人間の言語に象徴されるような高度の表象化を支える志向性の働きが欠けているからであり、また自閉症の子供が合格できないのは、共感を支える志向性の働きが欠けているからである」(茂木健一郎『心を生み出す脳のシステム』NHKブックス、2001年、189頁

 しかしまた、他者の心を読み取る「心の理論」の能力は、様々な要素の微妙なバランスの上に成り立っていると考えられます。人間の持つ、言語に象徴される高度の表象化能力と感情的な共感における扁桃核を中心とする大脳辺縁系の役割。自閉症のタイプによっては、天才的能力を示すサヴァン症候群があります。このサヴァン症候群のような能力は私たちの中にも潜在的にあるようですが、脳が全体のバランスをとるために抑制しているようです。

 前頭側頭型認知症の患者さんの中には、認知症の症状が現れるとともに、サヴァンに見られるような「本物そっくり」の絵をかく才能を発揮するようになった例があるそうです。認知症によって脳の一部が壊れることで、抑制が外されて出てくる人間の可能性。認知症とは何なのでしょう。脳のバランス失効なのでしょうか。

車を変えました

 車を軽自動車に変えました。まだ、車幅の感覚がつかみきれていませんが、駐車のときに、かなり小回りが利くというのは感じます。前の車だったら切り返しなしでは、前に駐車している車とぶつかって回りきれなかったところが、切り返しなしで一回で入れることができました。車高は前の車より高いので、運転しやすくなりました。問題は、加速のときのエンジン音が気になる点です。それと、細かいところにまだ慣れないので、結構肩がガチガチになっています。車の運転がこんなに疲れるものとは、あまり意識していませんでしたが。

 慣れた行動は、身体レベルの動きをいちいち意識していません。身に付けるまでに時間がかかるようになったのかもしれませんが、また身に付いてしまった動きの修正にも時間がかかる。身体の使い方によって、身体の特定部分(腰とか肩とか膝など)に負担がかかっていたりします。歳とともに、身体のゆがみが大きく響くようになってきているのでしょう。100歳を超えた伯母の生きていることのしんどさが、分かるような気になりました。デカルト心身二元論を言えたのは、寿命が短かったからなのでは、なんて思ったりします。

 取りあえず、4日間運転してみて、少しずつ新しい車に馴染んで来ています。

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弘道館裏門脇の道から> 2018年2月28日             2018年3月10日          

「うれしいひな祭り」

 今日はひな祭りです。「うれしいひなまつり」を久しぶりに歌ったら、声が出ませんでした。えー、まずいです、これは。私は3番の最初の2行が好きです。

 「金のびょうぶに うつる火を

  かすかにゆする 春の風」

情景が目に浮かんできます。そして次のように続きます。

 「すこし白ざけ めされたか

  赤いお顔の 右大臣」

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 今まで考えもせずに歌っていましたが、右大臣ってどこにいるのかなぁと探しました。随身(護衛)の位置にいる向かって右側の人形のようですが、まず問題は二つあります。一つは、右大臣というのは、令制太政官の筆頭官職名です。護衛の位置にいるはずはありませんし、弓矢で武装した衣装を着ているはずがありません。ひな壇飾りの2段目に来ないとまずいわけです。4段目の人形に、右大臣の呼称は本当は間違いですが、俗称で使われているようです。

 もう一つは、ひな壇飾りの左右は、お内裏様から見た左右に従って配置されるので、私たちの側から右に位置する人形は、左の呼称を持ちます。そこで、歌の中の右大臣は、正確に言うと「左近衛中将(さこんのちゅうじょう)」のようです。

 いろいろ調べると面白いですが、でも「うれしいひな祭り」はそのまま歌っていて楽しいです。

h-miya@concerto.plala.or.jp