宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

パソコン壊れました

 5日からパソコンが立ち上がらなくなりました。子どもの使っていないパソコンを借りて打っていますが、マウスがないので使いにくいです。文章を作成しなければいけないのですが、手書きしていると、やたら消して書き直してで、ぐちゃぐちゃになります。昔はこれでやっていたのになぁ。

 パソコンが使えないと、文章もまとまらない。メールのチェックもしなければいけないのですが、後回しになっています。これは当分、連絡事項は携帯でやるしかありません。携帯メールは打つのに時間がかかります。

 もう仕方ないと、腹を括っています。連絡くれている方、申し訳ありません。

「私は何をなすべきか」:道徳的問い

  今日は節分です。明日から暦の上では春ですが、今日、すでに寒さが和らいだ一日でした。明日も予報では、かなり暖かそうですが、翌日は一転してまた冬の寒さに戻りそうです。寒さが緩むと、ちょっと身体の緊張が解けた感じで楽になります。

 「私は何をなすべきか」の非道徳的な問いの問題を考えましたが、この問いと絡み合っている道徳的問いについて考えてみます。非道徳的問いは、「何がしたいのか」という問いですが、それは当然道徳的許容範囲の中で動いています。あるいは道徳的インセンティブが、生き方や職業選択に結びつくことがあります。例えば、正義感の強さが法を守る仕事を目指させたり、正義と思いやりが結びついて福祉の仕事を目指させるというように。

 倫理とは、「人が何をなすべきか」「どう生きるべきか」「人生において何が価値あるものか」などに関わります。「よく生きるとはどういうことか」に関わるものと言っていいと思います。

 道徳というのは、倫理的に生きるための「特殊な義務の概念であり、その義務概念に付与される重要性」(バーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』産業図書、288頁)と取りあえず言っておきます。そして道徳は、自生的に出てきたもので、文化や社会や時代によって異なります。道徳が一つではないからと言って、個人に特殊なものではありません。個人が引き受けているものは、カントが言うところの格率、モットーと言っていいでしょう。道徳は、多くの人が生きるにあたって持っている、義務についての言葉やそういう言葉の一部分です。

 カントで極まった倫理の厳格主義。現代では人間はもっと中間地帯で生きていると考えられています。身体が属する感性界と理性が属する叡智界に、ともに属して生きる人間の倫理は叡智界から来る、という考え方がカント。感性界の中に倫理を考えたのが、ニーチェ。『ケアリング』の著者ネル・ノディングズもどちらかと言うと、感性界の中に倫理を考えたと言えます。現代の英米圏の道徳哲学者は、啓蒙主義時代の理想主義的倫理観から見ると、もっと低空飛行の中に価値ある生の問題の選択肢を見ています。

 「価値ある人間の生のほとんどすべては、道徳が私たちに提起する極端な選択肢の中間に位置している」(バーナード・ウィリアムズ、321頁

 しかし道徳が掲げた理想主義が意味を持たなかったわけではありません。

 「道徳が掲げる理想は、世界にある程度の正義を実現し、権力使用と社会的な機会の操作によって具体的な形で不運を埋め合わせるのに、一定の役割を果たしてきた」(同上、323頁

 道徳の発達段階論を提唱したコールバーグは、理想主義的道徳観に立った道徳的認識の発達段階論を出しました。ギリガンは関係性の中での道徳的成熟を提示しました。正義という基準が、社会の中の不公平を埋め合わせるのに一定の役割を果たしてきた、というのは事実でしょう。では配慮や思いやりというケアは、どういう役割をはたしてきたのでしょうか。

 少なくとも、道徳はその人間の「自我」の核と関わっているということは言えると思います。「私とはどういう人間か」とは、「どういう人間でありたい」と思って生きてきたかということでもあります。人間は未完の存在ですから、死ぬまで「どういう人間でありたいか」と、自分のあり様に思いをかけながら生きるのだと思います。そして死んでからでもその人への評価は変わります。評価もまた未完ということでしょう。

 ローティはフロイトを取り上げながら「自己の偶然性」を言いました。ローティによればフロイトの主張とは「人間の生はすべて洗練された特異なファンタジーを仕上げることだ」(『偶然性・アイロニー・連帯』89頁)というもの。フロイトが試みたことは、合理性を、ある偶然を他の偶然に適合させる機制(メカニズム)として論じることだったというのです。合理性より、無意識な戦略には、私たちが適応する際のモードの選択肢がたくさんある。そしてフロイトによって、「『理性』と呼ばれる中心的な能力、つまり中心的自己などないのだ、という可能性を真剣に受けとめること」(71頁)が促されたというのです。

 スーザン・ヘックマンはこのような「自己の偶然性」の概念を批判します。彼女は信念の偶然性を宣言しながら、その信念のために死ぬ覚悟ができるかと問うわけです。しかし、偶然性とは蓋然性ではないし、必然性の欠如と必ずしも言えないと思います。いわゆる因果関係の欠如ではあっても。必然性と偶然性を対立概念として対置しているのはカントの様相のカテゴリーですが、そもそもローティはカント的発想を批判している。

 あるものを偶然であるということと、それに命をかけることは矛盾しない気がします。ある人との出会いは(人間にとって)偶然ですが、その出会いに命をかけることはあります。ヘックマンは、批判し再記述に次ぐ再記述の対象に命はかけない、自分なら、と主張します。信念が偶然であるということと、それに命をかけることは矛盾しないと思います。ただ、もしかしたらその信念は間違いかもしれないという疑念を持ちながら、あるいはその信念批判が可能であることを自ら検証しながら、その信念に殉じると言うことはあり得るのでしょうか。そこのところが問われます。

「みんなちがって、みんないい」

 朝起きたら、うっすらと雪が積もっていました。天気予報は当たったなぁ。でもお日様の力で、午後にはほとんど溶けていました。空気は冷たかったですが。リハビリのために水戸に行って来ましたが、雪は残っていませんでした。

 昨日から、金子みすずの『わたしと小鳥とすずと』の最後、「みんなちがって、みんないい」が気になっています。この行が、スッと入ってくるのは、その前の展開の力です。

 最初が小鳥との比較。飛ぶことと地べたを走ることを比較しています。次が音なのですが、すずの鳴り方と私の知っているたくさんのうたの比較。この2連目が素敵です。

 「わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鳴るすずはわたしのように たくさんのうたは知らないよ」

 この三つをどうして比較したのかなぁ。

 なぜこういうことを考えているのかというと、認知症高齢者の生き甲斐をめぐる問題を考えていたからです。あくまでも支援する側からの推測なのですが。

 多様な在り様を認めることは人間の尊厳の基本です。人権を守るために人間の複数性を承認するのは正義に適っています。どういうことかと言えば、私が誰かを嫌いであろうとどうであろうと、その人の基本的な権利は守られなければなりません。人間の複数性の承認、それは正義の根幹です。

 病気の人に親身に対応するのは、ある意味、人間的思いやりです。明日は我が身、という同情や人間の傷つきやすさへの怖れの感覚、そういうものが共生の基本的感情だと思います。

 しかしそれは、金子みすずが「みんなちがって、みんないい」と表現した境地とは異なっています。認知症状を示している人たちにできて、私にできないことって何なのだろう。ふと、そういうことを考えています。

「私は何をするべきか」という問い

 「私はこれから何をするべきか」。この問いは人生の健康な活動時間が伸びると、否応なしに自分で考えざるを得なくなります。この「何をなすべきか」の問いは、好きなことをすればいいじゃない、とは単純に言えないところに難しさがあります。「何をなすべきか」には、道徳的問いと非道徳的問いがあります。還暦以降の問いは、特に後者に関わると考えられますが、ただこの両者は切り離すことができない部分があります。

 好きなことをするのは、私たちは趣味と捉えて生きてきた気がします。仕事をしているとき、好きなことをしていても、それはどこかで仕事につながります。仕事の息抜き的に好きなことをする、ということも多かったのではないでしょうか。じゃあ、仕事がなくなって、好きなことを思う存分できるのかというと、どうも気が抜ける。

 子育てを終えた主婦の空の巣症候群が言われたのは大分前ですが、仕事も同じでしょう。企業が定年後の人生設計講座的なことを始めたのも、随分前です。仕事とは異なったインセンティブをどう見付けるのか。そういうところから、日本でもボランティアが盛んに言われるようになった。江戸時代や旧民法下であれば、隠居というポジションがありました。現代のサラリーマン社会において隠居にあたる退職は、平均寿命が延び、健康年齢も伸びた現代では、新たに第2の人生を構築しなければならない状況を生みだしています。会社に通っている間に、地域との関係は疎遠になり、あるいは形成できないまま、生産活動が停止し、行き場の構築が問題になります。地域の関係性は会社の関係性とは異なっていて、なかなかそこに馴染めず居場所を作れない。核家族化した時代の引退は、引き籠りになりそうです。語弊があったらごめんなさい。

 私たちは生涯を通じて、「いかに生きるべきか」「何をするべきか」の問いの前に佇みます。非道徳的な問いも道徳的な問いと無関係ではなく、そしてまた、生涯を見通して考える必要があるようです。

  「私はどう生きるべきか」の問いは、容易に「人はどう生きるべきか」の問いに包摂される、とバーナード・ウィリアムズは言っています。道徳的問いの場合は、それは必要なことであり、自分の考えが思いこみであるかどうかをチェックできます。もっとも、その問いに答える立場は一つではなく、大まかに「人の徳性を重視する徳論」、「動機を重視する義務論」、「結果を重視する功利主義」と分かれます。非道徳的問いの場合は、より個別性が強く関わります。性別、才能、機会、運、育成環境、時代などと、別の意味の一般論とは関わりますが、より本人の意思や意志が大きな要因になります。そして、自分がどう仕事して家族を作って生きてきたかは、どういう道徳を掲げていたかとも無縁ではありません。 

春を活ける

 まだ1月ですが、今日の生け花では、一足早く春を活けました。私が活けたのはネコヤナギとコデマリ、チューリップ、デルフィニウム(青紫の花です)。ネコヤナギがふっくらした小豆色で惹きつけられました。チューリップも紅色に白い斑入りで明るい華やぎがあります。私の撮影では、あまりうまく花の感じが出ていませんが、実物はみずみずしい春の華やぎを感じさせてくれています。

 活けるときにいつも思うのは、自然の造形の妙。ネコヤナギの枝のしなり方や絹毛のような花穂の可愛らしさ、この時期は葉っぱが出る前なのですが、人工物のようでいながら、やはり生きた質感がみなぎっています。デルフィニウムの色合いも素晴らしいです。花言葉は「清明」。ぴったりです。属名のDelphiniumは、ギリシア語でイルカを意味する「delphis」を語源としていて、つぼみの形がイルカに似ていることからきているそうです。私が見た写真ではおたまじゃくしのように見えましたが。でも花が咲いている姿は和名の大飛燕草、ツバメが飛ぶ姿に似ていることからつけられたそうですが、こちらのほうがあっている感じがします。

 花や木の名前の由来も、調べてみると面白いです。

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自己犠牲の徳?

 今日は風が強く、洗濯物も外には干し難いです。バスタオルの類は、外に干して、他のものは部屋干しすることにしました。陽ざしはあるので、部屋の中は暖かです。「最高気温11度くらいにはなるようですが、体感温度はそこまではいかないでしょう」と気象コーナーで言ってましたが、外に出ると本当に寒い。風に吹き飛ばされそうになったりします。

 今、自己犠牲の問題を考えています。ケアリングから生じる問題の一つですが、難しい問題です。ケアにおいては自己犠牲と責任が混同されがちということがまず挙げられます。あるもののために命までも投げ出すことが自己犠牲ですが、それは何か自分を超えるものに価値を見い出すことでもあります。ただ、自覚的に価値設定がされないまま、自分の時間や自分の命まで差し出すとき、自己犠牲には自分に酔う(自己陶酔)という側面も無きにしも非ず。自己陶酔でもしなければやってられない、ということでしょうか。あるいは社会的・宗教的価値に従った生き方の結果の自己犠牲の場合、不安感や他者からの評価がインセンティブと言うことが考えられます。これは自分の真の欲求に無自覚になる、あるいはそれを隠ぺいすると言うことにもつながります。

 ミルトン・メイヤロフは、自分自身をケアすることには何ら自己中心的なものはないと述べます。自己中心主義とは、「自己に病的にとらわれてしまうこと」だと言います。となると、「自己犠牲の徳」とは病的に他者に捉われてしまうこと、と言えるかもしれません。

 例えば親が子どものために一生懸命働いているとき、その時はそんな自己陶酔なんて関係ないでしょう。それこそ必死で頑張る。でも、子どもが巣立って行ったりして、繰り返し繰り返しそのときのことを語ったりしているのを聞くと、物語になっているなぁ、と感じます。自分の頑張りを自分で褒めている。日本の従来の親子関係の典型では、そういう親の頑張りを子どもが認め感謝して親を尊敬する、というものです。でも現実は、どうだったのかな。今の子どもたちは、「感謝しているけど何度も言われるとうざい」という感じでしょうか。

 それは私たちの世代でも、親世代に対する感覚としてはあると思います。頑張って働いて、夫にも仕え子どもの教育もきちんとしたのに、自分の思うようには子どもや孫たちから尊敬してもらえない。そういう、しっかり者の(現在80歳代から90歳代の)高齢の女性たちの愚痴は結構聞きます。彼女たちは、「自己犠牲の徳こそ女性の徳」と自分に染み込ませて生きてきた感じがします。その徳を達成したはずなのに、という嘆きの声なのでしょうか。

 介護の現場にいて思ったのは、人に何かをすることの充足感、というものは確かにあると言うことでした。子育ては義務になってしまって苦しくなる。でも基本にあるのは、育ち行く命につきあうドキドキ感です。介護は、支えることの充足感でしょうか。

 ジーン・ベイカー・ミラーは、「私たちは皆自分自身と他者を必要とするのに、社会の中で男性たちは彼ら自身に集中するよう育てられ、女性たちは『他者』に集中するよう育てられる」と書きました。「私」の自立の根底にあり続ける「私たち」。「私」の自立とは他者の出現でもあります。「私」の自立もあいまいなまま日本の共同体は存立してきました。基本は「私たち」のままだったのかもしれません。とすると、親が子どもを必死に守り育てるとき、自己犠牲というより自分の延長だったのかもしれません。日本社会で一般的に「自己犠牲の徳」の問題性は、成立しない? 

 考えるほどに分からなくなりました。(+o+)

食を味わう

 昨日のランチ、友人たちと3人で、水戸市浜田町の「フェリチタ」に行きました。ちょっと分かりにくい場所なのですが、51号バイパスを塩埼方面から水戸市内に向かって、渋井町の信号を越えすぐの横道を左折します。道の左側にあるトレーラーハウスのようなお店です。店内は外から見た感じと異なって、おしゃれな設えになっていました。

 私たちが食べたランチは、サラダにパスタ、飲み物のプランAでしたが、それにデザートをつけました。

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     サラダ・蓮根入りアマトリチャーナ風パスタ・デザート

 話に夢中で、お店の人が料理について説明してくれているのに、ちゃんと記憶に残っていません。ごめんなさい、でもとってもおいしかったです。

h-miya@concerto.plala.or.jp