宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

中秋の名月

 連日の猛暑、出かけるのが億劫になります。家にいると、海風があって、結構涼しいのですが、それでも昨日、今日とやたら洗濯物が乾きます。人間も干上がるなぁ、と水分補給に努めています。高齢者や子どもに気をつけるように、盛んにワイドショーで注意が喚起されていますが、確かに屋内での熱中症も増えていて、エア・コンの供給が追い付かないようです。

 デイ・サービスでのアクティビティ、9月のカレンダーづくりの当番にあたっているので、ネットで調べてみましたが、お月見の季節なのですよね。今年は9月24日が中秋の名月で、翌25日が満月です。中秋の名月というのは、陰暦8月15日の夜に見える月のことです。

 仲秋と書いてしまうと旧暦8月全体をさすので、旧暦8月の「月」を意味します。「仲秋」とは秋を初秋(旧暦7月)、仲秋(同8月)、晩秋(同9月)の3つに区分するときの使い方です。今年は8月7日が立秋で、暦の上で秋になります。残暑見舞いを出す時期ですが、毎年、暦の上での秋ねぇ、とあまりピンときませんでしたが、こういう風に旧暦の区分を見てみると、なるほどと思います。「中秋」は「秋の中日」=旧暦8月15日のみを指します。

 陰暦では新月の瞬間を含む日が、その月の朔日(ついたち)になります。今年は9月10日が陰暦の8月1日、陰暦8月15日は9月24日に当たります。天文学的な意味での満月は翌日です。地球から見て月と太陽が反対方向になった瞬間、月が太陽の光を真正面から受けて、地球から真ん丸に見える瞬間が満月です。

 陰暦9月13日の月を「十三夜」と呼び、その夜にも月見をする習慣がありますが、今年の十三夜は10月21日です。十三夜は中秋の名月の後の月なので「後(のち)の月」と言われたりしますし、栗や枝豆を供えることから「栗名月」、「豆名月」と呼ばれます。十三夜は日本固有の風習で、秋の収穫祭の一つではないかと言われます。

 月見の風習は中国から平安時代に伝わり、江戸時代に庶民階級にも普及したそうです。平安貴族は観月の宴や舟遊び(直接月を観賞しないで、船などに乗って水面の月を観て楽しんだ)で歌を詠んだようです。優雅ですね。

 カレンダーに使う素材として、ブドウ、クリ、芋、桔梗、菊、ウサギ、ススキ、月見団子といろいろ出てきました。9月も暑そうですが。   

遺伝子技術の進歩

 今日はお天気が崩れるという予報でしたが、今、雷が鳴っています。雨もぱらつき始めたので、窓を閉め回りました。準備万端というときに限って、大したことなく終わるのですが。大したことなく通り過ぎたようです。

 さて、遺伝子技術の進歩について。メンデルの遺伝法則(1865年)とその後の再発見(1900年)以降、仮想的な遺伝因子が設定されてきました。1910年に始まるキイロショウジョウバエ(理科で出てきました)の研究により、遺伝子が染色体上に線状に配列して連鎖群を形成することがわかり、仮想的存在だった遺伝子が物質的基礎を持つようになります。1940年代からは遺伝学が遺伝子解明へ進み、遺伝子技術へと大きな展開を見せていきます。1953年には、J・ワトソンとF・クリックによって提唱されたDNAの2重らせんモデルへと結実。分子生物学の発展とそれに基づく遺伝子技術が、20世紀後半には医療の分野で大きな意味を持つようになりました。そして、現在では、人の老化と死に関わる「テロメア」というDNAが発見され、細胞の老化を引き起こすメカニズムの解明がされつつあります。人が死ななくなったら、どうなるのでしょうか。人が溢れて困るよ、といった人がいます。

 日本人の死への感情は、恐れであるより悲しみであり、死にある種の安らぎを見い出すと言われます。仏教が入ってきて、地獄の思想との関係で死への恐怖も出てきますが、結局は阿弥陀仏信仰における絶対慈悲の教えのようなものの方が受け入れられました。

 近代日本人の死への特徴を加藤周一さんは「宇宙のなかへ『入る』またはそこへ『帰る』感情は多くの日本人に共通だろうと想像される」と言います。この感覚は分かる気がします。90歳を過ぎた方たちは、「早くお迎えが来ないか」とよく言います。確かに、死に怖さを感じていないのかもしれません。「怖くないんですか」と聞いてみたいと思いつつ、何となく今まで聞けずに来ました。でも、私もその年になったら、怖さを感じないかなとも思います。

 逆にずっと生き続けるという方が恐怖かな。

 ハンナ・アレントは『人間の条件』「第5章 活動」を「わたしたちのもとに子供が生まれた」で締めくくっています。これは、世界に対する信仰と希望を表現する福音書の「福音」を告げる言葉です。アレントは、言論と活動が人間を人間たらしめるものと考えています。これによって私たちは自分自身を世界に挿入し、この挿入は第二の誕生に似ていると言います。

 「活動する」というのは一般的に「創始する」、「始める」という意味です。人間はその誕生によって、「始まり」、新参者、創始者となるので、活動へと促されるのです。そして人間は一人ひとりが唯一な存在なので、人間が一人誕生するごとに、何か新しいユニークなものが世界に持ち込まれます。

 言論は差異性、多数性という人間の条件の現実化です。語ることなく行為はなされ得ますが、活動を活動にするのは、活動者が自らの行為の意味付けを言葉を通して知らせ、自分が誰であるかを積極的に知らせるときです。

 この人間事象の世界は放っておくと「自然に」破滅します。それを救うのが人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいているというのです。

 テロメアの研究が進んで、人間事象の世界が「自然に」破滅しなくなったらどうなるのでしょうか。新しい人びとの誕生、新しい始まりが歓迎されなくなったら。人間事象に与えられる信仰と希望は、人間の出生という事実と結びついていると言われます。でも古代ギリシア人は、キリスト教的世界の、信仰と希望という人間存在の二つの本質特徴を無視しました。彼らは信仰を低く評価し、希望をパンドラの箱の幻想悪の一つに過ぎないとしたそうです。

 遺伝子技術の進歩が描く未来は、「日のもとに新しきことなし」(『旧約聖書』「伝道の書」)を覆しつつ、でも新しいことを受け入れない世界になるのでしょうか。希望はないかもしれません。

サービス付き高齢者向け住宅の見学

 昨日、今日と暑い一日でした。今日は水戸にあるサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)と特別養護老人ホームを見学してきました。同じ敷地に両方ともあり、デイ・サービスの施設もありました。

 サ高住は民間が運営するバリアフリーの賃貸住宅で、自立あるいは軽度の要介護高齢者を受け入れています。地域包括ケアシステム拡充の施策として、2011年に創設されました。60歳以上の高齢者か要介護認定を受けた60歳未満の人を対象にしています。個室は原則25m2以上、廊下幅78cmなどの規定があります。確かに、広々としたスペースが確保されていると感じました。2011年以前に見学した幾つかの自立型の有料老人ホームは、もう少し狭かったと思います。

 サ高住には一般型と介護型があり、今日見学したところは一般型です。介護サービスを受けるときは、外部の在宅介護サービスを受ける形をとります。普通の居住スペースを賃貸借契約するのと基本は変わりません。ただ安否確認と生活相談が付いた賃貸借契約であり、高齢者が入居を拒否されることがないというメリットがあります。外出も自由です。

 サ高住のデメリットと言われるものに、介護度の重度化や認知症状の進行によって住み続けることが出来なくなるということがあります。今日見学したところは、同じ敷地に特別養護老人ホームが敷設されているので、そちらへも移行しやすいというメリットがあると感じました。もちろん特養は要介護3以上でないと入れませんし、順番待ちということにもなると思いますが、介護度が上がってきたとき゚、早めに申し込みをしておくこともできると思いました。それとデイ・サービスなどを利用していると、そこでサ高住以外のスタッフとの接触もあり、環境の変化を最小限に抑えることもできます。

 ただそういう環境に高齢者が固まって住むことの楽しさはどこにあるのか、と考えます。特養の施設長さんともいろいろ話して、自由スペースを地域の子どもたちに開放することを手探りしているという試みに共感しました。高齢者と子どもの交流の場を作れるなら、そこに高齢者の集まる施設の楽しさの一つが生み出されるのかもしれない、それもかなり本質的な楽しさが、と感じました。

救世主兄弟

 今日は朝、いきなり雨が降ってきました。その後はカラッと晴れて、暑い一日になりました。眼科検診の日で、待合室で2時間くらい待つ間、持っていった救世主兄弟の資料を読んでいました。

 遺伝子技術の進歩は、様々なことを可能にし、それと同時に社会的・倫理的問題が生じています。ヒトゲノムの塩基配列決定(シークエンシング)は国際的プロジェクトとして展開し、2003年4月14日に「国際ヒトゲノム計画」(日、米、英、仏、独、中国の24機関が参加)が解読完了を宣言しました。遺伝子地図(マッピング)の解析は続いています。1983年には、ハンチントン舞踏病デュシェンヌ型筋ジストロフィーの原因遺伝子の位置が確定されています。

 救世主兄弟とは、移植医療と生殖医療、および遺伝子技術が結び付いたことで出現した存在です。白血病などの治療として、免疫の型が同じ子どもを作って、兄弟・姉妹に骨髄などを移植します。兄や姉を救うために選ばれて生まれてくる存在を、救世主兄弟と呼びます。救世主兄弟は、ヒト白血球抗原のタイプが一致している存在です。ヒト白血球抗原は、父親と母親の型を一つずつ受け継ぐので、きょうだいで一致する確率は25%になります。このヒト白血球抗原は組み合わせのタイプが数万通りとも言われ、他人同士の間で一致する確率は数百から数万分の1と言われます。

 ヒト白血球抗原、HLAは1954年に白血球の血液型として発見されましたが、現在では、このHLAは白血球にだけあるのでなく、ほぼすべての細胞と体液に分布していて、組織適合性抗原として働いていることが分かっています。そしてHLAは遺伝子の第6染色体短腕にあることが解明され、体外受精したのち受精卵診断でHLAのタイプが完全に一致したものを選んで、妊娠・出産が可能になりました。

 2000年にNHKで放映された『人体改造時代の衝撃』では、1990年に実施された救世主兄弟からの骨髄移植が紹介されていました。この時は、4分の1の確率にかけて妊娠・出産したアメリカでの事例でした。反対運動が置きて、警官が出動して病院を警護する中での治療でした。2010年放映の『人体製造――再生医療の衝撃』では、受精卵の遺伝子診断によって完全に免疫の型が一致した子どもが、出産された事例が紹介されていました。

 どちらもアメリカでの事例ですが、アメリカではすでにかなりの数の救世主兄弟が生まれています。イギリスでは国会で4年に亘って議論され、2008年に血液の病気に限定して、救世主兄弟を作ることが許されました。アメリカには法的規制はありません。医者と当事者の良心に任されています。免疫の型が完全に一致していますから、すべての移植が互いに可能です。

 眼科の待合室で資料を読みながら、ふと考えてしまいました。もしHLAのタイプが一致していても障がいを持っていることが分かった受精卵しかなかったとき、どうするのだろうか、と。2010年放映の事例では、「姉娘を助けることができるもう一人の健康な子どもを生むことが出来るのなら、望ましいことだと思いました」というように語られていました。

 技術の進歩に私たちの欲望が振り回され、倫理も法律も追い付いていません。まず、遺伝子技術の進歩がどうなっているのか、知らなければならないのでしょう。

山田洋次の『学校』

 山田洋次監督というと、『男はつらいよ』シリーズを思い出しますが、その他にも素晴らしい作品をたくさん撮っています。『たそがれ清兵衛』や『隠し剣 鬼の爪』もそうです。それらの作品の直前に撮っていたのが、学校4部作です。1993年から2000年の間に作られましたが、最初の『学校』まで、構想に15年かけたようです。

 夜間中学を舞台に、教師と生徒たちの人間模様を描き出したものですが、下敷きになっているのは『青春 夜間中学界隈』(松崎運之助<みちのすけ>)。主人公の中学教師黒井先生(西田敏行)の下宿の大家さん役で、渥美清がちらっと出てきました。『男はつらいよ』以外での最後の出演作品だそうです。

 学校ものというと、私は『フリーダム・ライターズ』を思い出します。大好きな作品の一つです。これは1992年のロス暴動がきっかけとなって、人種融合策が取られた学校での新人教師による教育改革の物語です。実話をもとにした映画で、2007年に公開されました。エリン・グルーウェルという新人の女性教師が、ロサンゼルス郡ロングビーチ市のウィルソン高校203教室で行った日記を書かせる教育が、フリーダム・ライターズと名づけられました。これは1961年、黒人の公民権運動の中で、人種差別政策に反対する黒人と白人の学生たちがワシントンDCから南部への長距離バス旅行を決行し、彼らがフリーダム・ライダーズと呼ばれたことに由来します。

 エリン先生は、1994年から98年まで高校で教師をしていましたが、その後カリフォルニア州立大学の教員になります。ただ彼女は、203教室の卒業生と共に、フリーダム・ライターズ基金を設立して、教育改革の実践活動を展開していきます。

 『学校』は夜間中学を舞台にしているので、生徒の年齢層の幅が広く、教育というより「学校」という場を描いていると思います。「学校」はつらい現実に立ち向かうための 生き直しの場として、その意義が描き出されている。そこで大切なのは、仲間であり先生の存在なのです。だから、黒井先生は転勤を拒み、居続けようとします。「学校」を、卒業生がいつでもやって来られるような拠り所にしておきたいと願って。

 『フリーダム・ライターズ』の世界でも、203教室の仲間とエリン先生の絆は特別なものです。ただ、彼らは「場所」ではなく、その実践行為で変わっていったし、未来へ向かって行動し、同じような境遇の子どもたちに働きかけていきます。日本の社会問題もアメリカに比べて大変でないとは言えないのですが、日本人は理想を掲げて社会変革に動くより、「情」の世界で「情」を大切にすることで生き甲斐を見い出しているのかもしれない、と思わさせられる映画です。

生命倫理と「死」の問題

 バイオエシックスの授業で、生命の始まりと終わりの問題を扱っています。生命の始まりに関しては、生殖補助技術の問題があります。人間の歴史上、体外受精という技術が出て来るまで、考える必要のなかった倫理的・法的な問題が生じました。この体外受精という技術がもたらした生命領域への影響の大きさは、人間の欲望とどう向き合うか真剣に考えざるを得なくなっています。それは、新しい「いのち」の誕生とどう向き合うかを問われているからです。この問題は、別に書きたいと思います。

 ここでは、「死」に焦点を当てます。生殖補助技術は今や生命操作の段階に入っています。いのちの始まりの「死」というと、中絶の問題が考えられますが、体外受精技術は着床前診断による胚の選別の問題を提起しています。出生前診断の技術も進展していて、妊婦さんの血液検査による新出生前診断が一般診療の段階に入った(『東京新聞』2018.3.4)という記事が出ていました。受診出来るのは35歳以上や、過去に染色体異常のある赤ちゃんを出産した妊婦さんに限定しているということです。診断が認められている対象はダウン症(21トリソミー)、13及び18トリソミーの3つです。新出生前診断の臨床研究は、51139人で実施され、933人が陽性でした。確定診断(羊水検査など)を受けたのは781人で、700人に異常が見つかり、654人が中絶をしています。確定診断を受けていない人たちもいますが、その人たちはどうしたのか。

 異常ありと確定診断が出ると、妊娠を継続する人は明らかに少ないです。ダウン症の親の団体からは、もっと社会全体で議論すべきとの批判も出ているとのこと。遺伝子診断に関しても、治療法の無い遺伝病の診断には難しいものがあります。私たちは、時期は確定できないが明らかに発症する、治療法の無い重篤な遺伝性疾患にどう対処すべきかわからないからです。ましてや生まれる前の子どもに関して、その子が明らかに障害を持っていると分かったとき、どうすべきか。生まれてから分かるのと、やはり異なっていると思います。

 生存しているときの「死」の問題というと、「脳死・臓器移植」があり、生命の終わり方をめぐっては、安楽死尊厳死の問題があります。「死」それ自体が大変な問題であるのに、ここに技術が絡んでの操作が問題になるのですから、複雑極まりない。宗教的文化的背景も関わってきます。日本人は宗教というと、あまり自覚していない人の方が多いのかもしれませんが、「死」に対する感受性はキリスト教文化圏とは異なっていると思います。「死」は恐れの対象であるより、悲しみの対象であるとも言われます。こういう問題も考える必要があります。

 

人間は機械として語れるのか

 今日は26日です。何だかあっという間に半年が過ぎていく感じです。毎日のノルマをこなしているうちに6月が終わってしまいます。13日に八幡宮の紫陽花を見に行きましたが、19日にも他の利用者さんたちと八幡宮の紫陽花を見に行きました。明日からお天気が崩れるというので、今日しかないと出かけましたが、お天気もよく、道路も空いていて、八幡宮も13日より空いていました。スタッフも含め、みんなとっても気分よく、足取り軽く帰って来ました。 

 気分が軽いとからだも心地よく動きます。こういうとき、こころとからだは同じリズムを共有しているなあと感じます。ところで、心身二元論の分断を乗り越えて、というとき、精神とからだを共に機械としてとらえる人間機械論が思い出されます。デカルト自身は、からだは機械として捉えることができても、人間には精神があるので機械ではないと考えていました。さてこの人間機械論を考えるとき、福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)の生命現象における「時間」の意味という視点を思い出します。そして福岡さんは、「生命とは、テレビのような機械ではない」と言います。

 これが語られている文脈はこういうものです。福岡さんが所属する研究チームは細胞膜のダイナミズムを司るたんぱく質を探し、膵臓細胞に多数存在するものと仮定して、突出して多く存在するたんぱく質にGP2という名称を与えました。その特性を調べるために、GP2遺伝子を特定しその全アミノ酸配列をアメリカ細胞生物学会で発表します。次に、現実にどんな働きをしているかを調べるための実験を開始。

 例えば機械のパーツの働きを調べるのにはどうすればいいか。そのパーツを取去って、その機械がどうなるかを試せばいい。同じことを、遺伝子レベルでもできると推測し、彼らはGP2が存在しな状態を作り出して、膵臓が大パニックに陥ることを示せばいいと考えました。そして実際に、GP2ノックアウトマウスを誕生させることに成功しました。はやる心を押さえてマウスの細胞を調べた福岡さんたちは、GP2ノックアウトマウスの細胞があらゆる意味で、まったく正常そのものであることを発見します。

 混乱と落胆、そしてどう解釈したらいいのか。遺伝子をノックアウトしたにもかかわらず不都合は起こらない。これは狂牛病プリオンタンバク質の役割の実験でも起こっていました。狂牛病にかかるとプリオンタンパク質が異常型になり、脳細胞が障害を受けます。では正常型プリオンタンパク質は脳細胞でどのような役割を持っているのか。これが分かれば、狂牛病発症の解明につながるのではないかと考えられました。そこで遺伝子ノックアウト実験が開始されました。

 牛でやるのは難しいのでマウスを使って、プリオンタンパク質遺伝子をノックアウトしたマウスを、スイスの研究グループが作り出しました。狂牛病になるのは、病気によって正常なプリオンタンパク質が本来の機能を失うためではないか、という仮説が立てられたからです。ところが、プリオンタンパク質をノックアウトしたマウスは正常に誕生し、その後も健康そのもの、何の不都合もみつかりませんでした。

 この話には続きがあります。プリオンタンパク質ノックアウトマウスに、≪不完全な≫プリオンタンパク質遺伝子を戻してみたらどうなったか、という。こういうのを遺伝子ノックイン実験と呼ぶそうです。生まれてしばらくは何事もありませんでしたが、次第に歩行が乱れ、体が震え(運動を司る脳の障害に起因)、やがて衰弱して死んでしまいました。

 プリオンタンパク質を完全に欠損したマウスは異常にはなりません。つまりこのピースは、なければないで特に不都合を起こすこともないのです。しかし不完全なピースは、マウスに致命的な異常をもたらしてしまいました。こういうことは機械では考えられません。あるピースを完全に取り去っても機械は正常に作動するが、部分的に戻したら動かないなんてあるのでしょうか。むしろその逆でしょう。ピースの部分的な損傷は、機械を誤作動させるにしても動きはしますが、完全にあるピースを壊してしまったら、機械は動かないでしょう。

 だから生命を機械と考えるのは間違っている、生命にとって「時間」という要因は基本的なものなのだと。「私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行動が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りできない一方向のプロセスである」(263頁)。生命現象は動的平衡系であると、福岡さんは言います。生命現象とは、致命的欠陥でない限り、欠損を調整するシステムなのだというのです。

 「機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜きとったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。

 生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる」(271頁)

 「生命とは何か」について分子生物学者の辿り着いた見解は、「生存の一回性」という宗教的・哲学的テーマを遺伝子レベルから語れることを示していて、この本を読んだときの興奮を思い出します。

 分子生物学や大脳生理学の進展が、精神現象の物質的基盤を明確にしつつあります。そして精神を物質現象に還元することで、人間機械論が成功を収めつつあると言われています。しかし、物質的現象に基盤を持つということは、精神=物質ということではありません。また、生命という物質的現象自体、機械の物質的現象とは異なっていると考えられるわけですから、たとえ精神を物質現象に還元できたとしても、人間機械論は成り立たないと言えるでしょう。

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