宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

バイオメディスン

 15日に買ってきたナス苗をまだ植えていません。植える場所の草取りと、土の耕しが終わっていないので。16日、17日は仕事で、金曜日は休みでしたがお天気が悪く肌寒かったし、午前中は用事があって出かけ、戻ってから昼寝してしまいました。今日はまた仕事でした。でも早いところ植えてしまわないと苗の元気がなくなるのではと、気が気ではありません。

 さて、現代の医療における問題を、医療が文化的・社会的コンテクストと密接に関わる点から考えてみます。これは医療人類学などの切り口ですが、バイオメディスンという言葉を始めて目にしました。生体医学と訳されるようです。近現代医学を伝統医学と区別する言葉として、医療人類学などで使っているようです。

 医療人類学は、医療技術が人間の生と死に関わることで、社会の価値体系や個人の価値と密接に関わることを明らかにします。波平恵美子さんは「医学は科学の一領域であるとしても、医療は科学ではない」(『いのちの文化人類学』)と言います。医療技術は、「社会や文化の枠の中でのみ人間たり得る存在を対象に実践され」、その人間は感情や情緒に支配され、複雑な人間関係に生きています。現代医療技術の進歩は、人間を没価値的で普遍的な生物体とみなすことで発展してきました。この人間観は遡れば、デカルト心身二元論に端緒があります。この現代医療技術の発展はまた、人間のQOL(生活の質、生命の質)をめぐる問題に目を向けさせることになりました。

 現代医学の進歩がもたらしている様々な問題は、科学論の中でも語られていますし、生命倫理でも当然語られています。現代の医療は人体の臓器を部品とみなし、不具合は修理したり交換すればいいという流れになっています。ただし人体は部分の単純な総和ではありませんから、総合的に判断できないとある症状の本当の原因は付きとめられません。そのために総合医の重要性が言われますが、専門医ばかりで、患者にはどこに行ったらいいのか分からない場合も多々あります。

 近代医療の対象となる人は機械としての人ではなく、病という苦悩をもつ社会的存在としての人格を持ち、人類文化の成果である医療技術の施しを受けて、人間的環境で可能な限り生きて、そしてしまいには尊厳をもって死んでいくべき存在なのです。患者が人間らしく生きる環境を整え、病気の根治がもはや期待し得ない場合でも、病の悩みを軽減する技術が看護であり、ナイチンゲールは治療されるべきは病人であって、疾病ではない、という重要な認識を示しています。

 医療は自ら治癒しようとする意志を持つ人格としての患者の存在(core)と、その病に対する治療(cure)と、人間としての患者の状態の改善を目指した世話(care)の三位一体からなるとされます。アメリカの看護理論家リディア・E・ホールの全面的専門看護における「看護サークル」の考え方です。

 本来、科学技術は人間の苦悩を軽減するように創造され機能すべきである、と佐々木力さんは『科学論入門』で述べていました。医学もまた科学技術の一翼を担うものであり、その精神は当然同じはずです。そして医療は、その精神を具現するものとして、現実社会の中で力を発揮する必要があり、そのためには歴史的・社会的・文化的制約の中の人間を対象にしていることを、銘記する必要があるのだと思います。 

言語論的転回3)ノミナリズム

 今週7日、8日と雨模様で、冬に逆戻りしたような気温でした。9日は仕事がオフだったので、遅くまで寝てしまいました。腰の痛みが少し和らいだ感じです。その後、水戸の図書館に行って来ましたが、水戸の街まで何となく物悲しい感じでした。10日にはお天気は回復し、暑くもなく心地よい日でしたが、朝晩は肌寒かったです。昨日は午後、施設の回りを利用者さんたちと散歩。気持ち良い午後でした。今日は少し暑いくらいでしたが、夕方、平磯海岸まで歩きました。浜昼顔のちょっとした群生がありました。

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      浜昼顔の群生           夕暮れの平磯海岸 

 さて言語論的転回におけるノミナリズム。ローティがノミナリズムという立場を主張するとき、観念や概念に対して、それらを言葉抜きに取り上げてもほとんど役に立たない、私たちは結局言葉を使わざるを得ないのだから言葉を研究しなければならない、というようなことを言っています。

 でもまずノミナリズムについて考えておきます。これは通常、ヨーロッパ中世の普遍論争の中で出てきた立場の一つである唯名論(名目論)を言い表しています。「普遍論争」のきっかけは、『アリストテレス範疇論入門』(ポルピュリス著)の中で提起された「普遍universalia(種と類)は実体として存在するか、あるいは人間の思考の中にのみ存在するにすぎないか」という問題でした。これが11世紀後半、範疇(カテゴリー)は、物resであるか音声voxであるかの問題と関連して論争となり、実念論実在論概念実在論)と唯名論(名目論)の対立に発展します。

 実念論プラトンイデア論に代表されるような、「普遍は個物に先立つ」という立場です。スコラ哲学には、実念論が都合がよかったようです。例えば、カトリックとは「普遍的」という意味ですから、実念論に立てばカトリック教会は単なる信者の集合体ではなく、信者に先在する権威的実在だということになります。また、神・子・精霊の三位一体も、実念論を取らないと三位が分裂して三神論になってしまうし、人類という普遍が実在しないと原罪や救済の考えが成り立ちません。

 これに対し11世紀の唯名論は、普遍は思惟の抽象の産物か単なる名称nominaに過ぎないとして「普遍は個物の後に存在する」と主張しました。13世紀には実念論が優勢になり、14世紀にはその反動として唯名論が復活するというような歴史的論争を繰り返しました。(オッカムの剃刀で知られる)ウィリアム・オッカムは、「普遍は単なる名称で、個物を表す記号に過ぎない」というように主張しました。

 現代ではノミナリズムの考え方が一般的ですが、実念論の現代における意義を主張する人もいます。また生物学的な視点から、例えば「この犬」「この人」という個物に対して、犬や人間のDNAという「普遍」を指摘する人もいます。これは普遍と個物の関係では、「個物のの普遍」(中世スコラ哲学の区別の仕方は三つ、)と言えるのでしょうか。でもDNAと言ってしまうと、それを遺伝情報と言おうと物質であり、物質は変異していきます。

 アリストテレスの形相(本質)は何に当たるのでしょうか。第一実体としての形相とは何なのでしょうか。アリストテレスは単に名前と考えていたわけではなく、本質はあると捉えていたと思います。ただしそれは、あくまでも個物とともにあり、個物の質料の側面が実現するときにそれを統制しているものとして。ソクラテスプラトン的な永遠のイデア界とは異なる実在論であり、また、DNAという質料(物質)による支配という立場とも異なっていると言えます。

 つい「ではそれは何か?」と聞きたくなるのですが、おそらく、ソクラテスがエレンコスの果てに到達した「内証するしかない次元(非知)」(古東哲明『現代思想としてのギリシア思想』)なのかもしれません。 

老いと哲学

 以前「老いの哲学」というタイトルで、「老い」というパースペクティブから考えることを書きました。もう一つ、「老い」という状況が哲学的問題、「生きることの意味」にセンシティブにならざるを得ない状況であることを感じています。

 体調がすぐれない高齢者は、「もう助けてくれなくていいのに」「次にまた発作が来たら助けないで欲しい」というようなことを言います。生きながら生きていない感覚を持つのかもしれません。人間は誰でも死に直面している存在ですが、回復困難な病気を抱えていたり内乱や極度の困窮状態にないとき゚、80代後半や90代にならないと、日常的に「死に方」を考えたりはしません。かなり現実的性格の人だと受け取れる方が、口癖ではなく、真剣に自分の死と向き合う瞬間に出あうとき、「老い」というものは人間の根源的条件を実感させる時期なのだと感じます。

 客観的に見て、体力的にもまだ何かあっても回復可能と見える方が、主観的にまいってしまって、「死」を口にする。その飛躍の仕方に何と返答したものか言葉に詰まります。でも、自分の日常性が少しずつ戻ってくる感覚を持つと心が明るくなるようで、日常的に出来たことや面白かったことについて話し始め、立ち直ります。

 若くても基本同じことだなぁと思います。人間の生きる気力や希望は、体力次第、環境次第のような部分があるなぁと。心理的に疲れ果てたり悲観的になったりしても、ご飯が美味しかったり、よく眠れたり、外の空気が気持ち良かったりすると、結構気分が晴れます。その繰り返しが生活。生活の重要性、根源性があります。心の病いは、そこが崩れていると言えるのでしょうか。生きる意味如何の問題ではなく。でも、生きる意味という問題がないわけではありません。

 日本人は現世肯定で、「絶対」の観念を欠くと言われたりします。普遍性や理念へのオブセッションを持たないとも言えるかもしれません。哲学を必要としないのかもしれません。それでも「老い」という状況は、「死」や「生きること」そのものへの問いと向き合う瞬間をもたらす気がします。その問いをどう受け止めるかに関わりなく、問いそのものは、やはり存在する。「老い」という状況は、「存在する」ということのバルネラビリティに触れやすい状態なのだと感じます。

子どもと空想の世界

 今日は、子どもの日です。田んぼには水が張られて田植えの時期。私の好きな水田風景の時期です。水田風景の美しさは、周りの景色と一体化しています。満々と水が張られた田んぼの水面に、林や空、雲、山などが写って、風が水面を渡ってくるとき゚の心地よさもあり、この時期の水田は見ていて見飽きません。

 Netflixのオリジナルドラマ『アンという名の少女』の世界も同じように田園風景です。原作は言わずと知れた『赤毛のアン』ですが、人物の描き方や物語の作り方が、一歩踏み込んでいてストレートだと感じました。原作はもう少し、余韻がある。都会の中でアンのような、空想好きでおしゃべりな少女が動き回っていたら、少々疲れそうです。田園風景の中だと、刺激になります。『孫悟空の遊勇伝』も、思わず見てしまいますが、こちらの脚色は漫画チック。

 お話の世界を、子どもは大好きです。感覚に訴える世界だからでしょうか。プラトンは芸術を敵視しました。絵空事の世界を描き出して、感覚的執着心をあおり、本来人間が求めなければならない、感覚を超えた永遠の真実への探求心を妨害する、と考えたようです。もっともプラトンの書いた対話篇の文体は、とても美しいと言われています。偉大な文学作品として位置付けられています。アリストテレスは、悲劇についても述べていて、「悲劇」が人生理解に果たす重要性を書いているようです。人生を理解する洞察力をそこから引き出すことが出来ると。また悲劇に強い感動を覚えることを「カタルシス」と呼び、「魂の浄化」と定義しています。

 物語だけでなく、ドラマは好きでよく見ます。創られた世界はそのまま感覚で受け取めて、その中に没入して現実から離れることができます。魂の浄化とまでは行かなくても、気持ちがリセットされる感じがします。今はやっていませんが、山歩きしていた頃、やはり現実から離れて気持ちがすっきりするのが好きでした。旅行も同じですね。

 Netflixのオリジナルドラマを観ていると、ここまで遊んでいると面白いだろうなあ、と思います。そしてそれに共感する人口の多さ、子どもだけでなく大人も空想の世界が好きなんだなあ、と思います。

承認欲求と自己実現

 今日で4月も終わりです。母が家に戻って来てから、急速に元気になりました。病院にいたときやショートステイにいたときには、何となく気力が無くなっている感じで、大丈夫だろうかと思っていました。それが家に戻って来て、2、3日で驚くほどの変貌がありました。身に付いた動きや分かっている場での動きは、本人に自信を取り戻させるのかもしれません。

 それでも、頭が混乱している、迷惑をかけているだけと盛んに訴えます。それに対しては、時間がかかるけどちゃんと戻るから、と答えています。以前と全く同じでなくても、人間生きている限り成長していると思っているからです。利用者さんと1年以上付き合っていると、症状の進む方もいますが、以前よりクリアになり、体も元気になっている方もいます。年齢やそれまでの状態、発症の原因の違いや本人の性格など、いろいろあるのでしょう。

 ところで、ケアの根底にある人間観は近代主義的人間観とどう異なるのでしょうか。近代主義的人間観では、人間を基本的に能動的・主体的存在と捉えます。近代主義的人間観では、その最終目的を「自己実現」に置くと言っていいと思います。私自身、長くこの「自己実現」にとり付かれていた気がします。今もそうかもしれません。

 これに対し、人間の相互ケアが提示しているのは、私たちが傷つきやすいという自他の脆弱さを引き受けて、互いの自由を支え合いながら生きているという側面ではないでしょうか。バーリンは「二つの自由概念」の中で、多くの人間が本当に求めているのは際限のない自由ではなく、承認されたいという欲求である、というようなことを述べていました。つまり切り離された自由ではない、大切にされているという実感である、ということです。大切にされているという感覚は、認められている、自分の「居場所がある」という感覚ではないでしょうか。それは何ができるからとかではなく。

 また、互いの自由を支えあうというのは、人それぞれの、踏み込んではならない領域を認め合うということだと考えます。ただし、踏み込んでいけない相手の領域を認めることは、相手との間に無関心な距離を作ることは意味しません。理念として相手の領域を認める、ということはある意味たやすい部分があります。それは距離を置けばいい、とも言えるので。ただ人が本当に欲しいのは、自分への関心なのでしょう。しかしそれがお節介になるのは嫌なのです。なんと欲深いのでしょうね。でも分かる気はします。本当に欲しいのは、自分を分かって認めてくれること、でもその大変さも分かるので、お節介されるくらいなら、そこそこのところで諦める。

 さてケアには、困難や負担(ケアする側の恣意性や自己犠牲)という否定的側面と、思いやり、熱意という肯定的側面があります。そしてケアの射程は、私的心情的人間関係を超えて、社会的公共的場面にまで広がっています。社会的公共的場面におけるケアを統括するのは、単に個人的心情的なものではなく、政治的な側面を持ちます。このケアの持つ両側面とその射程とどう向き合えば、介護にむなしさや疲労感を感じるだけでなく、誇りと喜びを見出せる社会への道を描けるのでしょうか。あるいは介護される側が、一方的に負い目を感じるのでは無いようなケア関係は、どうやったら築けるのでしょうか。

 ケアを認識論・存在論の側面からだけでなく、施設介護や家族介護の現場からの声を拾うことで、自らの行く末を見据えたいという思いがあります。人は自己実現を本当に求めているのだろうか、むしろ承認欲求の方が強いのではないか。あるいはこの両方を車の両輪のように必要としているのかもしれません。

心と体

 疲れが取れないなぁと感じます。心が疲れているのか、体が疲れているのか、それともそんなに単純な二分法ではないのでしょうか。

 心と体が連動していることは、日常的にごく当たり前のことです。しかし、心と体は完全に一体化して同じものかというと、また話は別です。例えば体は疲れているのに、神経の緊張が続いていると、気がつかないまま無理をしてしまいます。心の側が、主導権を握っているのでしょうか。この場合、無理やりにでも休息を取らないと、伸びきったゴム状態が続いて、体も心も疲れ果ててしまいます。

 体が疲れていて、気分が乗らないということがあります。元気が出ない。ただこの段階だと、元気は出ませんが、悲観的ものの見方や感じ方が出てくるわけではありません。ただ、疲れてるなぁという感じ。体を心がサーチできています。心はセンサーなのでしょうか。頭を使うという働きは、一見、心の作用のように考えられますが、少し違う気もします。頭を使う、認知の働きは脳の機能ですが、心を使うのはもっとトータルな機能なのではないでしょうか。

 人間関係や仕事の失敗で心が疲れているとき、体を動かすことで解消することもあります。心は疲れても、体には基本直接影響はないということでしょうか。心が疲れて、眠れなくなると体に当然影響が出ますが、眠れている限り、回復していきます。

  心とは何か。デカルトは「思うこと」「感じること」を心と捉えていたと思います。正確には「疑う」という能動性、とも言われます。「疑う」ことで、感覚や想像力を離れた知性的認識に至り、心が体に縛られなくなるというのです。疑うことで自由を経験する。

 すべてを疑うことで取りだされた「心」の実在の直観は、体の実在に関しては間接的に取り戻すという手続きを必要としました。体はいずれ消滅します。そのとき「心」は?

高齢社会の「仕事」を思う

 レッドコードを使ったエクササイズがあります。体幹を鍛えると言われていますが、私自身はやったことがありませんでした。身体を吊るした状態で、余分な力を入れずにいろいろな角度の運動を行えます。筋肉の張りや痛みを軽減して、過緊張状態の改善につながります。続けることで、筋力増強効果もあるようです。

 認知症フロアの利用者さんにも使ってもらおうという話になり、急きょ使い方を習って、利用者さんの前で掛け声をかけながら指導することになりました。冷や汗ものですが、もちろん初歩的な使い方なので、それなりに形はできていたようです。もっと上手にならなければと思っています。でも、レッドコード、仕事がらみでなければやらなかっただろうなあ。

 仕事って何なのだろうと考えています。高齢社会になって、勤め人は定年退職後の、まだ健康に活動できる時間が結構長くなっています。特に仕事を生活の基本に据えてきた人にとって、毎日が日曜日はどういうものなのでしょうか。

 仕事は、根本のところで「好き」がないと続かないかもしれませんが、日常的には合理的なものです。他者からの要求や、事柄の必然性で動いています。仕事でなければ向き合わないであろう諸々のことがあります。何をすべきかは自然に決まってきて、自分が面白いと思うからやるとか嫌いだからやらないという対象との向き合い方とは、少し異なっています。やらざるを得ないのでまず始め、面白さを感じるようになることは多いと思います。

 こういう物事への向き合い方は、仕事でないと難しい気がします。本人の性格もありますが、苦手意識や(やっても面白くないだろうとか、意味がないだろうとかの)負の評価があると、制約がない時はまず手を出しません。私のレッドコード体験はまさにそれです。やってみると、腰が伸びた感じがして、少し腰痛が軽くなった気がしました。

 年とともに、だんだん新しいことに手を出すことが億劫になっていきます。その意味で、仕事は否応なしに挑戦する機会を与えてくれているとも言えます。まあ、レッドコード、あまり無理でない範囲で続けようと思いましたが、高齢者対応の使い方は私自身にとっても益があると分かりましたので、少し頑張っちゃいそうです。

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          見にくいですが、レッドコードを使った動きです。

h-miya@concerto.plala.or.jp