宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ナイトタイムエコノミー

 今日はハロウィンです。ケルト人起源の、秋の収穫を祝い悪霊を払う祭だったのが、アメリカで民間行事として定着し、宗教色は無くなっていると言われます。子どもたちが仮装して、家々を回ってお菓子をもらう行事、くらいに私は記憶してました。何らかの宗教的意味合いはあったのだろうけど、と。そう言えば、何年も前にアメリカで、仮装してハロウィンに参加した日本人留学生が、「止まれ」と言われた言葉が聞き取れず、一歩踏み出して射殺された事件を思い出しました。

 ハロウィンは日本ではあまりなじみがありませんでしたが、ここ数年、渋谷で行事として盛り上がって報道されるようになり、今日のNHKの特集でも取り上げられていました。ここで、ナイトタイムエコノミーという言葉を始めて知りました。「夜遊びの経済学」。

 1990年代初頭から、英国が振興に取り組んできた試みです。特に観光客にとっては、日本の夜は遊べるところが少なくてつまらないとか。なるほどなぁ。そう言えば、夏の祭りも、私が小さかった頃は、夜中の2時3時までやっていたようです。確かに次の日は辛いなあとは思いますが、夜の時間の開放感もありますよね。治安の問題やゴミの問題など、解決しなければならないことは沢山あるようです。それでも、やろうという地域主体の試みがあれば、新しい経済活動としての可能性を秘めているようです。

 仕事が終わってから、夜のコンサートや美術館でワインを楽しむ、なんてことも素敵だなあと思います。次の日が休みでないとちょっと無理ですが。

ミュージック・ケア実践プログラム体験

 大洗「こどもの城」で開催された、ミュージック・ケアの合同勉強会に出席してきました。出席者としては楽しかったです。ただ、これを実践にどう活かすかは難しいと感じました。構成されたプログラムに参加するのと、自分でプログラムを組むことの距離は思っていた以上に「ある」と言うことです。

 認知症onlineで音楽療法士・佐藤由美子さんへのインタビューと、彼女がアメリカで行った重度アルツハイマー症の男性への音楽療法の動画を見て、改めて音楽の持つ力を感じました。音楽を聴くことと音楽療法は異なるとも述べられていました。そして、日本では音楽療法がはっきり定義されていないので、理解が深まらないことや、音楽療法士の資格の問題もあるとのこと。音楽療法士のスキルにばらつきがあり、専門職として確立される必要があると言われていました。

 私が勤めているデイでも、音楽を使ったりしますが、ただ本格的な使い方は出来ていません。今日のミュージック・ケアの合同勉強会でも、講師の吉田茂樹さんが強調していたのは、対象者の音楽への思いをつかむことからミュージック・ケアは始まるということ。佐藤さんも「ひとりひとりの患者さんにどの音楽や音楽活動を用いるか、アセスメント(事前評価)を通じて知ること」が一番大切だと述べていました。「この世代には、この音楽」と決めつけるのはよくない、とも。

 就学前の子どもが対象の場合、その発達段階やこれからの育ちに向けて使いたい音楽は、ある程度決まってくると思います。これは教育現場における教材一般に言えるでしょう。ただ高齢者の場合の難しさは、個別性の際立ちにあると言えます。それぞれの人生体験から生じる好みや「わかりの履歴」の厚みが、半端ではない。今日の勉強会でも言われていた「実践者の実践力や人間力」という言葉に、改めて原点を突き付けられた気がしています。

衆院選を総括する新聞記事から

 衆議院選挙が終わり、色々総括されています。東京新聞の25日、26日の「誤算の行方」は面白く読みました。記事は、民進党合流組の一部を「排除する」という発言を引き出したフリー記者の質問を、小池さんが避けた話から始まっていました。

 この「排除」、実は都議選のときにすでに始まっていた。「都民ファ―ストの会」の選挙支援は、民進党離党が条件で、リベラル色の強い一部労組との関係も断ち切らせていた。ただ、それは小池さんの側近や民進系会派の幹部が水面下で手配し、小池さんはおぜん立てができたところで登場。表舞台で排他性が際立つことを避けられた。しかし、今回の選挙では時間がなく、彼女がすべてを一人で担った結果、「排除」という表現が引き出され、小池劇場の失墜が始まった。厳しい状況の小池さんに対し、前滋賀県知事の嘉田由紀子さんが、「私の状況とよく似ている」と自分を重ねる。そして、「(再起できるかどうかは)小池さんが都政にどう向き合うか次第だ」と。

 今日の東京新聞「論壇時評」で中島岳志さんが、むしろ若い世代が 共産党を保守的な政党とみなしていることの方が、正鵠を得ているように思えると主張していました。中島さんの主張に沿いつつ、私なりに補足しておきたいと思います。中島さんは、小池百合子代表は希望の党の立場を「寛容な改革保守」と言い、立憲民主党枝野幸男代表は「リベラル保守」と言ったことから、そもそも保守とは何かと問います。「保守」という立場は、18世紀のイギリスの政治家エドマンド・バーク(1729-1797)の『フランス革命についての省察』(1790年)に端を発します。この書は、バークを慕うフランス人青年のフランス革命(1789年)への献身を伝える手紙への返信として書かれたものが骨子となっています。フランス革命批判の書で、近代主義者の理性による理想社会実現、啓蒙の実現への批判の立場と言えます。

 確かに、イギリス経験主義の立場は、極端な理性主義に批判的ですし、慣習・伝統・世襲制度・私有財産権を擁護します。功利主義の創設者ジェレミー・ベンサム(1748-1832)もフランス革命を批判しています。そう言えば、『炎のランナー』(1981年)を思い出しました。1919年のケンブリッジ大学を舞台に、実在の二人のランナーを描いた映画です。一人はユダヤ人のハロルド・エイブラムスで、彼は走ることで栄光を勝ち取り、真のイギリス人として認められたいと思っています。もう一人はスコットランド宣教師のエリック・リデル。彼は神の恩寵を示すために走ります。私の印象に残っているのは、ケンブリッジの教授同士が、ハロルドに対しその能力を認めながらも、ユダヤ人であることへの、シニカルな評価を下している場面でした。いかにもイギリス的だなあと、感じたのを覚えています。差別意識を隠すことなく、かと言って全面排除するわけでもない。

 さて、中島さんの「時評」に戻ると、安倍首相は、急進的な「レジームチェンジ」を盛んに言います。保守の考え方の起源からすると、安倍政権は保守とは言い難い感じですし、小池さんの「リセット」も保守とは言い難い。若者は「極端な変化よりも、庶民の生活の安定を訴える」共産党の主張の中に、歴史的に構成されてきた社会基盤を保護しようとする、「守る」ことに力点が置かれている姿勢を見て、「保守的」と判断するのだろう、と言うのです。

 さらに、西部邁さんは安倍政権を「真の保守」からの逸脱とみなしているということが紹介されていました。その最大の根拠は、安倍内閣が「米国べったり」の政策を推進していることにあります。西部さんによれば、米国は歴史的経験知の蓄積を欠いているため、本質的な保守思想が共有されていない。国家の基調が「古いものは悪で、新しいものは良いもの」というジャコバン的考えに近い。しかし冷戦体制下で、米国側につくのが保守で、ソ連側につくのが革新という政治の構図が自明視され、親米が保守と同義に受け取られたと言うのです。

 ネオ・リべ(新自由主義)の持つ問題性は、日本人の持つ競争を忌避したい心根や世間に生きるという精神風土からも、捉え直される必要があります。「リセット」でなく、「出直す」という言葉の方がしっくりくる、という主張も誰かが書いていました。常識も共通感覚も英語では、コモン・センスです。常識の底にあるのは、おそらく感覚的なものだと思います。私たちの時代の常識を、見つめ直すときなのかもしれません。

ケア責任について

 超大型台風21号はまさに衆院選を狙ったかのように、22日、日本列島に近づき、23日未明に静岡県に上陸し、関東地方を通過して、午後3時に北海道の東海上熱帯低気圧に変わりました。午後からは晴れ間も出て、やっと長雨から解放された、😥という気持ち。

 さて先日、利用者さんが廊下を散歩中に、カートを廊下の曲がり角に引っ掛けて膝をついてしまいました。その膝を以前骨折していたので、心配したご家族が病院でレントゲンを撮ってもらい、何んともなかったとの連絡を受けました。こういう事例は、インシデント報告書として挙げます。ケア責任とは何かを考えました。

 責任とは通常、ある自発的行為に対してその行為者が引き受ける意識や責務、制裁のことです。ですから、自己決定には自己責任が伴うと言われます。しかし、本来、レスポンシビリティとしての責任は、2列に向き合った聖歌隊が交互に歌う「応答性」に由来すると言われます。それが、18世紀の産業革命と契約の隆盛の中で、道徳用語として形成されました。今道友信さんは『エコエティカ』の中で、応答性としての責任の形成について次のように述べています。

 「相互の取り決めによる契約社会が出来上がってきたときに、目前に物がないのに、契約の成立のためにどうしてもなくてはならない基本的な心構えとして、お互いに交わす言葉に応じて約束通りに動くということ、応じ合う行為が大切だという考えが出てきました」(106-107)

 そして、このような意味の責任という言葉は、J・S・ミルの本にあるが、彼の造語ではなく、おそらく共同意識としていつの間にか作られていったのだろうとも述べられています。責任が自己決定に伴う自己責任という側面から、他者への応答としての側面が強調されるようになるとき、他者の権利を支える義務の問題、援助の問題を考えることにつながっていきます。ケア責任の問題は、この視点から考える必要があります。

 ハンス・ヨナスは自己決定から責任が生じる自己責任と区別して、滅びゆく「他者」への責任を言います。不確実で滅び行くはかなさを持つ存在(人間を含めすべての存在)が、紛れもなく存在していることを通して、責任の感情を動かす。なにものかが存在しなければならず、そして人間は責任能力を持っている。責任能力を持つことが、現実に責任を果たしているかどうかにかかわりなく、責任を持っていることを意味している、と言うのです。その典型としてヨナスが挙げているのが、親の子どもへの責任と政治家の責任です。

 ヨナスは、科学技術がもたらした威力が、「人間自身の自然」をも含め、自然破壊を推し進めることへの強い危機感から、自然の傷つきやすさという次元への配慮の必要性を訴えて、『責任という原理』を著しました。彼がこの著書で試みたことは、自らの生きる基盤を葬りかねない事態への人間の責務が、緊急の課題になっているという問題意識でした。そこから責任という原理が、形而上学のレベルまで深められなければならないという視点から、考察がなされました。

 ではケア責任はどういう視点から考えたらいいのでしょうか。ケア責任の根拠は、やはり、滅びゆく他者(人間だけでなく)への責任の感情に由来する、と言えるかもしれません。ただし、作品へのケアをも含めてケア責任を考えるとき、そこには不死なるものへの情熱があると言えるのではないでしょうか。これに対して、滅びゆく他者への責任は、何に由来するのか。

 私は、リチャード・ローティが語っている、残酷さを避けるというリベラルの要求を、挙げたいと思います。このリベラルの要求は、私たちはみな傷つきやすく苦しみを受けやすい存在である点で平等なのであり、それゆえ残酷さを減らさなければならない、ということを意味します。ローティは、人間という存在の内部にある、話される言語とは全く独立に尊重と保護に値する何かを、非言語的能力である苦痛を感じる能力であると言います。

 もう一つ、ケア責任を担うのは誰かという問題があります。政治の責任について、小泉進次郎氏が、都市からだけでもなく地方からだけでもなく、それらを俯瞰する視点から考えなければいけない、というような演説をしたと今日のワイドショーで語られていました。しかし、ケア責任に関しては、人間が関係性の中で生きていることを前提に考える必要があります。アフリカで飢えている子どもたちへの関心は必要ですが、その子どもたちへのケア責任を、今、ここ(日本のある地域)で生きている私たちが負っているのかということです。ケア責任は他人のうちで完結する必要があります。ネル・ノディングズは「私たちは、完結の可能性を吟味することで、責務を制限するのである」と言います。自らのケア能力への現実的把握が必要になるということです。それは何を意味するか。個々のケアは、それぞれのケア関係の中で完結しなければいけないとして、それだけでいいのでしょうか。

 私は、ケアの責務は「連帯」しなければいけないと考えています。残酷さを避けるというリベラルの要求を実現してゆくため、ケアの責務を「連帯」によって果たすということです。具体的な個々のケアリングは、完結する環をなすとして、それらの環が繋がって伸びてゆくイメージです。そして、俯瞰する目にあたるものは何なのか。それが、「誰も傷つけられてはならない」なのかどうか、考えています。

『怒れる12人の男』

 『怒れる12人の男』を授業で使うので見直しました。このドラマは、30回以上観ています。原作はレジナルド・ローズ。1954年にアメリカのテレビドラマとして製作され、評判がよかったので1957年にそのリメイクとして映画になりました。私がもっぱら使っているのは、この1957年のシドニー・ルメット監督制作の作品です。

 レジナルド・ローズが殺人事件の陪審員を務めたことから、この作品の構想・執筆が始まったと言われます。日本でも裁判員制度が始まりましたが、陪審制度を説明するのに、裁判員制度を引き合いに出したりもしています。裁判員制度では、原則裁判員6名と裁判官3名の合議体体制をとります。裁判員制度を規定する法律(通称 裁判員法)は2009年5月21日に施行され、8月3日に東京地裁で最初の公判が行われました。

 裁判員制度では、有罪判決をするには合議体の過半数の賛成、かつ裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければなりません。陪審制度では、陪審員のみで評議を行い、評決を下します。日本でも1928年から刑事陪審が実施されましたが、1943年に施行停止されたままです。裁判員制度は厳密には陪審制度と異なります。陪審制度では民間人6名から12名で合議体が構成され、事実認定を行い、評決は全員一致が原則です。裁判員制度では、事実認定だけでなく量刑も判断します。

 この陪審制度には、市民の常識や価値観が反映されるという意義や、権力の濫用に対する防護壁という位置づけが与えられていましたが、同時に批判もあります。それは陪審員が感情や偏見に左右されやすいという点で、黒人の公民権運動のきっかけになった事件の一つ、エメット・ティル事件の裁判を思い出します。

 1955年に起きたこの事件。当時14歳のシカゴ育ちのティルは、ミシシッピ州デルタ地区の親戚の家に遊びに来ていましたが、南部の慣習に逆らって、白人女性(21歳)に口笛を吹いて殺害されました。陪審員による判決で、被告ロイ・ブライアントとミランは無罪になりましたが、数か月後に雑誌のインタビューに応じて、ティルの殺害を認めました。この事件に関して、2004年、アメリカ合衆国司法省は、二人以外の人物が関わっていたかどうかを再調査するための再捜査を決定しました。2007年2月、主に黒人陪審員で構成された大陪審(23人による構成)で、他の人間の誘拐・殺人への加担は根拠づけられなかったと結論付けました。

 いろいろ批判もある陪審制ですが、アメリカ市民の信頼度は高く、陪審制の廃止論は強くないと言われます。『12人の怒れる男』では、陪審制度を使って、ヘンリー・フォンダ演じる主人公の陪審員8番の「話し合いましょう」という何度も出てくる言葉に、アメリカの民主主義への信念が描かれています。日本でも何度か舞台化され、三谷幸喜作『12人の優しい日本人』なども作られています。

 今観ても、古びていない作品です。1997年にテレビ映画としてリメイクされた作品『12人の怒れる男 評決の行方』も観てみましたが、私としては、1957年作の方に軍配を上げます。無駄がなく、表情のアップでいろいろ表現する手法、そして出演者も57年作の方が良かったです。まあ、何回も観ているので、贔屓目もあるかもしれませんが。

11・3憲法のつどい:「脱原発」を茨城からはじめよう!

 昨日、「11・3 憲法のつどい」第4回実行委員会がありました。仕事場では、日常生活動作(ADL)に困難を抱える方たちとの時間で、日常生活を送る動作の問題――食事や排せつ――に注意を集中しています。打って変わって、夕方からの実行委員会では、脱原発憲法の視点から考える理屈の世界になりました。この落差に、最初、小さな違和感がありました。

 私たちにとって、生活の基本は衣食住ですが、それも理屈の部分と身体化している部分があります。社会的活動をしている世代では、身体化している生活の部分は暗黙知の領域で、そこに困難を抱えたときのリハビリ等に向けるエネルギーの膨大さには、普段は思いが至らないと思います。また、現在、衆院選が公示され、選挙戦が闘われていますが、障がいの問題は焦点になっていません。

 もちろん現代の政治は、障がいを持っている人たちにとっても生きやすい社会であることが、結局は人間らしい社会なのだということを、基本に据えています。でもそれが具体的にどういうことなのかは、なかなか実感しにくい部分があります。

 東海第二原発は来年で稼働から40年を経過します。30キロ圏内に暮らす多くの人が「20年限度延長」申請には反対だし、まさかそんなことしないだろうと思っています。ただ、この地域では原発に絡んで生計を立てている人たちも多く、日常会話で簡単に「廃炉に決まっているじゃない」と公言できない部分があるのも事実です。ここの難しさは、私自身が市議選に立候補したときに感じたことでもあります。安全性の確保をどうするかは、もちろん言わなければなりませんが、それが即、廃炉とか脱原発という表現になりませんでした。

 高齢者のデイ・サービス、特に心身に障がいを抱えている人たちの施設で働くようになって、火事の避難訓練のとき、痛切に思い知らされたことがあります。原発で何かあったら逃げられない、と。そしてそれはスタッフも同じだと思います。責任者がどう判断し、どう行動するかも問われます。福島を経験したあと、同じような葛藤を引き起こす状態を防ぐのは、政治の役割だと思いました。あのとき、表現できなかったことに一つ答えを見付けました。

 11月3日の憲法のつどいは、脱原発の問題を、日本国憲法「第8章 地方自治」との関連も踏まえて考えようという試みです。

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社会心理学

 今日は社会心理学の2回目の授業です。社会心理学社会学と心理学が合流したような分野です。心理学ですから、個人の心理領域に関する分野ですが、社会学の流れをくむ社会学社会心理学と、心理学の流れをくむ心理学的社会心理学が最初は並立していたようです。その後社会心理学の実験化が進んで、個人の心理に注目する心理学的社会心理学が優勢になりました。人間の心理は、他人との関係や現代ではマス・メディアの影響を強く受けます。心の動きが生理的現象(汗をかく、心臓がどきどきする)とどう関わるかを研究する生理心理学を除いて、心理学は、個人とその社会行動や社会生活との影響関係を扱うと言っていいと思います。

 人間関係論という比較的新しい分野では、作業効率にどのような人間的要素が影響を与えるかを実験して、作業現場の人間関係の重要性を導き出しました。仕事における人間関係の比重の大きさは、経験的には語られています。自営業や家内工業のような仕事の場合、すでに人間関係は出来上がっているわけで、それはそれで問題をはらんではいますが、特に仕事と人間関係が問題視されることはなかったと思います。仕事場が新しい人間環境の形成である様な仕事の仕方は、確かに近代以降、日本では第2次世界大戦以降に急成長していったやり方です。1950年代初め、日本の50%以上は農業に従事していました。その他にも自営の商店も多かった。自営の商店への就職の場合は、基本その家のやり方に従って働く形をとったと思います。そこでの人間関係のいざこざは、女将さんが采配を揮う。対等な「他人」が集まり、職場環境を調整しながら共同作業という形態は、少なかったと思います。

 こう考えると、雇用労働者という形態が当たり前になっている現代の職場環境では、日々、同僚を含め他者との関係性の調整が大きな問題になっているわけです。今日はコミュニケーションの問題を扱います。対立管理の自分のタイプを知ることをやってもらい、そしてアサーションの基本的な考え方と実例を紹介します。

 

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