宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人間の業

 宮部みゆき『三鬼 三島屋変調百物語四之続』を読み終えました。面白かったです。第4話の「おくらさま」の評価が高いようですが、私は表題の第3話の「三鬼」に胸をつかれました。人間の業が鬼と化し、それに自らを重ねる話し手の心の深淵から響いてくるような言葉に。「彼は私だ。私が彼だ」と。

 もう25年くらい前になりますが、大学2年生の時の恩師の言葉が蘇ってきます。般若心経を読むゼミで発表が当たりました。内容を理解し、納得したのですが、でも私自身の生活は変わりませんでした。そのことを研究室まで押しかけ、担当教官にどうしてでしょうかと尋ねたときのことです。私の疑問に、目を閉じてじっと耳を傾けてくれていた(故岩本泰波)先生が、「でも私の生活は変わりません」と言った途端、パッと目を開いて、ご自分の膝を叩かれ、おっしゃいました。「宮内さん、それが業だよ」と。

 小説の内容ほどでなくとも、日常の過ぎ越しの中には、「どうして」と思い、「どうやったら変わるのか」と思うことは多々あります。特に対人関係の中ではあると思います。アサーションの考え方の中に、「他人と過去は変えられない」というのがあります。そうだよなあと思いつつ、どうしてもそこで思考がぐるぐる回ってしまう。でも、ある瞬間に、「それは私だ」と思ったとき、閉ざされた回路の中で堂々巡りをすることから解放される、そういう経験はあると思います。これを、河合隼雄は共感と言ったと思います。ただ、私はそうかな、と思っています。「業」への啓けの瞬間ではないでしょうか。ただしそれは、垣間見るような、そういうものなのでしょう。すぐに元の自分に戻ってしまう。戻るのもまた、人間の業なのかもしれません。

 ソクラテスの問答法は、エレンコス(吟味、論駁)と言われます。何を吟味しているのかといえば、対話相手の生き方そのもの、魂の在り方そのものです。古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』の「第4章 非知の技法ーソクラテス」では、ソクラテスの問答法が人知のゼロポイントまで人知を追い詰める作業だったと述べられています。偽りの倫理的信念を持っているものは誰であれ、常に、それが偽りであることを必然的に導き出すようないくつかの真なる信念を、同時に持っている、とソクラテスは想定していた。プラトン学者ヴラストスのソクラテス解釈を引きつつ、古東さんは主知主義者と言われるソクラテスの、知を追い詰める技法は、逆説的に知に沈黙させる技法だと言っています。内証するしかない次元(非知)が問題だったのだ、と。黙ってそこに浸され充たされるしかない場所。人知がとぎれた<たましい>のなかで、得心するしかないことこそが問題だったのだ、と。

 人間の業とは、そういうものなのかもしれません。「それは私だ。私がそれだ」と。

静かな時間

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                      名平洞公園

 小雨降る一日。何となく一日が過ぎました。こういう日もいい。でも、人気のなさが静かさと感じられるか、寂しさと感じられるか、は私自身の心持なのでしょうか。それとも場所が醸し出すものなのでしょうか。

 先日の名平洞公園は静かと感じられました。今日、大洗に行く用事があり、帰りにアウトレットに寄りました。ここは閉店しているお店も多く、お客も少なく、物悲しかったです。土日には違う街の風景があるのでしょうか。

 「自然」の中に、あるいは、石庭のような場所に人がいないのは心地よいのに、街に人がいないと寂しさを感じます。街は本来人が集まる場所だからでしょう。コンクリートは、人がいないと殺風景さと侘しさを感じさせます。4月29日に、銀座の歩行者天国を歩いた時にも、寂しさを感じました。活気がなかったからだと思います。静かさは、ただ人がいないことから生まれるものではないようです。

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     銀座の歩行者天国                  笠間 春風萬里荘の庭園

 

 

憲法ドキュメンタリー番組

 久しぶりに名平洞公園を散歩しました。そして四つ葉のクローバーを2本見付けました。去年は、9本見付けたので、今年はあまり散歩してないなあ。

 昨日のNHKスペシャル「憲法・70年の潮流」は録画しながら、最後まで見てしまいました。日本会議の出発点が、1970年の三島由紀夫の割腹自殺に触発された右派の青年たちによる日本青年協議会結成だったことに納得。2015年の憲法改正に関する調査で、改憲を必要とするが43%、必要ないが34%。しかし9条に関しては改正の必要ありは25%、必要なしが57%でした。かつて護憲・改憲論争は、9条に焦点が当てられていました。これを主導したのは当時の社会党でした。

 現在、改憲必要ありと考える国民は、むしろ自分たちの生活を守るための改憲と考えるようです。護憲派も、自分たちの生活を守ることを起点に、逆に、今ある憲法を実現して欲しいと訴えます。報道ステーションの中で語られていたと思うのですが、かつて改憲派だった元自衛官が、現在は護憲派の立場になったと。彼は、現憲法の精神を知るにつれ、作られたときの理想に燃えた創造性を今の改憲派は持っているのかと疑問に思うようになったそうです。ただ昔に戻そうとしているだけなのではないかと。そして賛成している人たちは、強い国を実現することで自分も強くなると錯覚している。しかし、国が武力で強くなるとき、個人の自由は抑圧されて行くと語っていました。これはその通りだなあ、と思いました。

 4月30日のNHKスペシャル「憲法誕生への道」も見ごたえがありました。上の元自衛官だった人が語っていたように、現憲法に創造的に結実した当時の(日本人だけでない、世界の)人びとの平和への思い。「平和国家の確立」を掲げて、敗戦の中から立ち上がった日本人の渾身の思いが伝わってきました。そしてこの「平和国家の確立」という理念は、敗戦直後の昭和天皇勅語の中で語られていたこと。それを受けた現憲法の平和主義は、安倍首相の言う「積極的平和主義」とは明らかに異なっています。

 両ドキュメンタリーは、『不思議なクニの憲法』と合わせて、何人かで学習会をやりたいような内容でした。

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    四つ葉のクローバー                    名平洞公園

認知症とノーマライゼーション

 認知症とは何なのだろう、認知症状を抱えてもできるだけ普通に暮らせないのだろうかと考えています。

 認知症状を呈する代表的なものが、アルツハイマー認知症です。以前に読んだ『100歳の美しい脳 アルツハイマー病の解明に手を差し伸べた修道女たち』(D.スノウドン、2004年)を読み返しています。最初に読んだときに印象に残っていたのが、脳には広範囲にわたって損傷が見られるのに、アルツハイマー病の症状がまったく出なかった修道女がいたこと。その逆に脳の損傷は軽かったのに、症状が顕著だった修道女もいる、ということでした。

 クリスティーン・ブライデンさんは、『私はわたしになっていく 痴呆とダンスを』(現在は痴呆症と言わず、認知症。しかし翻訳の言葉を使うことにします)の中で、自分の脳のスキャン画像を見せて講演することを書いています。なぜなら、彼女の話を聴く人が、彼女が前頭側頭型痴呆症を抱えていることを、どうしても信じられないことがよくあるからだと。医師たちも彼女の脳の画像だけを見ていると、中程度の前頭側頭型痴呆症で、すぐにも施設入所が必要な人の脳と感じるようです。脳の状態と認知症状は、単純にイコールではなさそうです。人生経験やその人の個性・能力とも、症状の出方は結び付いている。

 D・スノウドンさんは、脳の基礎体力の違いが、症状に影響するのではと書いていました。クリスティーンさんも、彼女の主治医の分析によると、発病以前の能力がかなり高かったこと、進行が例外的に遅いこと、そして夫の素晴らしいサポートがあることが大きいようです。そしてクリスティーンさんの主治医は、先入観や一般論を投影しないで、彼女の感じ方を受け入れてくれて希望を与えてくれる、と彼女は言っています。

 認知症になると何もできなくなる、という見方は少しずつ変わって来ていると思います。それでも、認知症になりたくない、ならないための脳トレや運動や食事などが盛んに語られています。それはそうだろうなあと思います。でも、認知症になっても困らない生活環境があったら。

 クリスティーンさんが、意識的に使う言葉PWiD(ピーウィッド=パーソン/ピープル・ウィズ・ディメンティア)は、痴呆症(認知症)という病気を抱えているが、それと向き合って生きているという意味合いがあるそうです。この言葉は、痴呆症(認知症)を持つ人たち自身によるネット上の自助グループが、自称として使い始めた言葉です。クリスティーンさんが認知症を抱えていることは事実ですが、彼女はそれを自分の人生の課題として主体的に向き合っています。それを支えているのが、医師であり、サポートグループであり、家族であり、そしてケア・パートナーとしてのポールさんです。

 認知症になったらこうなってしまう、仕方ないではなく、その人らしく、社会の中で普通に生活を継続するやり方はないのでしょうか。

憲法のつどい

 今日の憲法のつどいで、ドキュメンタリー映画『不思議なクニの憲法』(監督 松井久子)の上映会を実施しました。見ごたえのある映画でした。若者や女性(主婦、弁護士、フリーター・デモ発起人、アイドル、障がい者で人権活動家)の活動や発言と、識者の発言がバランス良く収録。トータル2時間半(間休憩15分)でしたが、全然眠くならず(ある参加者の感想)いろいろ考えさせられました。最後は「さあ、考え始めましょう」だったと思います。その呼びかけはそのまま、私の私への呼びかけの言葉として残りました。

 本日、安倍首相が、自民党総裁の立場で改憲を明言しました。2020年までに実現したいと。映画の最後で、ただ護憲を言っているだけでは、自民党改憲勢力に対抗できないと言った井上達夫さん(彼は非常に明晰な法哲学者)。彼の『共生の作法』(1986年)は相対主義の問題を考えていた私に、衝撃を与えた本です。彼は、現憲法基本的人権の問題はきっちり守られなければならない、しかし安全保障体制(九条)についてはこのままでは逆に危ない、シビリアン・コントロールの問題などをきちんと憲法に入れていかないと、と述べていました。

 その一方で、憲法学者長谷部恭男さんの「今の安倍政権の下での改憲は危険だ」という見解にも納得します。弁護士伊藤真さんの「憲法には理想が掲げられている。それが現実に合っていないから、改憲というのは違う。理想に向かって私たちは努力してきたし、努力すべき」という見解にも納得します。九条は、カントの『永遠平和のために』の精神の結実したものだと思います。

 どこに落としどころを持ってゆくのか。「さあ、考え始めなければ」。

浦和での同窓会

 昨日(29日)、浦和のワシントンホテル2階のファーマーズガーデンで、大学時代の仲間との、恒例の学年同窓会がありました。今回は少なくて、7名の出席。一学年100名でした。亡くなった人や遠方の人もいます。毎回、12、3名は参加していたと思いますが、私も2年ほど間が空いてしまいました。久しぶりに会って、みんな年取ったよねなどと話しながらも、いつの間にか、大学時代の感覚に戻ってワイワイ盛り上がりました。年一回、互いの安否確認のようなもの。

 その後、女性3人でお茶して、私は銀座の伊東屋を目指しました。水平ノートをずっと探していて、この際だからと思って伊東屋に行ってみました。丁度、歩行者天国の時間帯でした。伊東屋にはありませんでしたが、店員の人から、有楽町駅前のロフトに置いてあったとの情報をゲット。有楽町ロフトは並木通りに移転するということで、閉店セールの真っ最中でした。水平ノート2冊を選んで、レジに至る最後尾に並びました。こんなに並んでいて電車に間に合うかな、と思いましたがあきらめるのは悔しいので。でも、時間はそれほどかかりませんでした。

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   銀座の歩行者天国                   念願の水平ノート

 交通会館前のスペースで開催中のマルシェで、おいしいコーヒーを売っていました。まだ時間があったので、豆を引いてもらいました。お財布を取りだして、レジの前にバッグを置いていたら、年配の男性がスッと手に取りました。びっくりして、「私のです」と言ったら、「ああ、ごめんなさい。素敵なバッグだなと思って」と言うので、「売り物じゃないです」と応答。かなり恐縮していたので、本当に何気なく手にしたようです。でも、「ええー」でした。

 浦和駅付近は西口も開発されてきれいになっていました。東口も再開発中。大学生の頃、浦和駅水戸駅は似たような雰囲気で、何となくほっとしました。でも浦和駅前は、行くたびにどんどん変身しています。良いのか悪いのかわかりませんが、今回、浦和でもお上りさんになった気分でした。

 

立場にもとづく客観性の乗り越え方

 立場を変えることが、隠れている別のものを見ることになるというテーマは、昔から語られてきました。立場が違うと、まるで異なる風景が見えることは事実です。立場に囚われない見方は、より成熟した見方とも言えます。しかし、立場による客観性があるのも事実であり、それに対してはどう考え、どう対処していったらいいのでしょうか。

 客観性・客観的というと、トマス・ネーゲルが『どこでもないところからの眺め』で書いているように、立場からの独立と捉える方が一般的だと思います。

「ある見方や考え方は、個人の特徴や立場や、特定のタイプの生物である特徴に依存する程度が少ないほど、より客観的である」(5頁)

 ところでこれとは対照的に、立場による客観性とは、特定の立場から観察されるものに関する客観性です。「近くにある家の模型と離れた距離にある実際の家が同じ大きさに見える」というのは事実です。それは誰がそのポジションに立っても同じに見えるでしょう。と同時に、家の模型を現実の家のところへ持ってゆけば、やはり誰が見ても大きさは明らかに異なります。見るときの位置(立場)は、見え方に影響し、それは誰が見ても同じという意味で、客観的です。 

 このように、立場による客観性は事実であり、それが立場に基づく理解の不当な応用に至ることがあります。例えば、日本でもまだまだ女性科学者は少ない。そういう立場に基づく観察から導かれる、成功した女性科学者が少ないという事実(数値にも示されている)は、女性は科学が不得意だという結論に結び付きやすいです。しかし、もしかしたら先達がいないことで、女性たち自身が科学を勉強する気にならないのかもしれません。さらに立場に基づく観察の結果、他の社会や他の時代の事例を詳細に検討しないまま、女性が科学を学ぶ機会や設備、科学に興味を持つ工夫がなされない。その結果、女性の科学に関する能力が発揮されないのかもしれない、ということが理解され難くなっています。つまり、立場に基づく理解が不当に応用されています。

 しかし、現実にどこにも立たない視点、理性的普遍的視点(虚焦点)を設定するだけでは問題は解決しません。というのも、「立場に基づく視点から『どこからでもない視点』に順当に進むという期待が十分に成功することは望めない」(アマルティア・セン『正義のアイデア』254頁)からです。ニーチェはそれを「あだな好奇心」「片隅から指令するような笑止な傲慢」と言いきりました。人間は「片隅からの遠近法だけ」を持つことが許されるのだ、と。その超克を、ニーチェは超人への没落という方向性で示唆しました。

 この立場に基づく限界をどうやって克服するのか、へのセンの示唆は「相対的良さを合理的に追求する」(同上書、255頁)というものです。それが開放的不偏性の追求と言われます。自分の立ち位置から始まって、視野を広げ、隣人との相互関係の強さによって正義の境界を広げていく。ここでは合理性でなく理に適うという考え方を取ります。

「自分自身の精査に耐えられることが合理性の概念にとって中心的であるのに対し、他者の視点からの批判的精査を真剣に考慮することが、合理性を、他者との関係で理に適った行動に高める上で重要な役割を果たすことになる」(セン、同上書、294頁)

 私たちはどこまで行っても自分自身の遠近法から逃れることはできません。しかしそこから一足飛びに、超越的立場(絶対に正しい立場)を模索するのでなく、開放的不偏性の追求という道があります。人が「理に適った形で拒否できない根拠に基づいて考える」こと、「われわれ」の境界線を広げていくこと、というような。

h-miya@concerto.plala.or.jp