宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

型が育てるもの

 中山要『御徒の女』を読みました。御徒というのは、徒侍、徒歩で行列の先導を務めたような下級武士のことです。御徒の女とは、この徒歩組の娘や徒歩組に嫁いだ女たちのことです。時代は、幕末、お徒歩組に生まれた長沼栄津の娘時代から始まります。嫁いで母になり、御一新の中で息子と一緒に武家を捨てて生き抜いてゆく、女の一代記でした。おかめ顔に生まれ、身体の弱い母親を支え、見栄っ張りで自分勝手な兄と兄嫁に振り回されながら、マザコンと噂されていた男に嫁ぎ云々。一気に読んでしまいました。「ぶれない武家の女の一代期」のような帯が付いていましたが、ちょっとイメージが違います。「ぶれない武家の女」という言葉から、私が思い浮かべるのは山本周五郎の描く女性たちです。

 『御徒の女』は、栄津の心を描き込んでいるので、結構ぶれぶれじゃないかなあ、と思いました。生き方は武家の娘の道を外れず、ぶれていませんが、心の中は結構ああでもないこうでもないと思い悩み、嫉妬し、疑って、と現代的だなあと感じました。山本周五郎の世界は、型の世界だと思います。行動も心象もある型を持っていると思います。小津安二郎の世界と近い気がします。昇華された型で世界を描き出している、と。

 江戸時代は文化優位の時代、文化が個人の生活を規定しているといった人がいます。これは型が決まっていた、ということだろうと思います。「型」というのは、今の時代あまり評価されないようですが、「型」があることで、逆に心が自由に羽ばたくという側面もあると思います。そして、心だけでなく行動においても「型」を破るときには、リスクを伴うかなりの勇気を必要としたでしょう。その結果、時間をかけ江戸期に個性的な人が育ってゆく土壌が耕されたのかもしれません。

 型との付き合い方、型の意味、そして常識とは。これらを考えていると、コモン・センスそして共通感覚の問題へとつながってゆきます。

茨城有権者の会 総会:「しぶとい老人たち」

 16日(日)、みと文化交流プラザ(元ビヨンド)で、茨城有権者の会主催の映画鑑賞会と総会がありました。映画は市川房枝さんの軌跡をたどった『87歳の青春』。会員以外の参加者20名強のうち、市川房枝さんを知っていた人は数名でした。市川さんの活動に、「こんな方がいたんですか、すごいですね」というような感想もありました。

 今日(18日)の東京新聞の「本音のコラム」で、ルポライターの鎌田慧さんが、「怒れる老人たち」と題して、政治批判の視点の停滞とその再興までの処し方を書いていました。かつて労働運動や学生運動に参加することで、時の政権に抵抗する大衆運動を担ってきた層が、今や高齢化しています。「労働運動と学生運動の停滞と断絶が現在の暴政を許してきた。これらの運動が再興されるまで老人が担おう」と結ばれていました。

 権力(主流派)は必ず抑圧を生みます。抑圧される側(ローカル)が、自分たちの状況を意識化して抵抗するのは、自然発生的な場合もありますが、やはり参加・学習・行動の中で自らの視点を構築してゆくからだと思います。ローカル・レジスタンスという視点は、抑圧に抗して自由を求めるとき、出てきます。個々人の生活の中での抵抗の視点は、普通に生活する庶民の中にも息づいています。

 しかし、政治に関するレジスタンスの視点は、労働運動や学生運動の中で身に付けられてきたというのは、その通りだと思います。そういう学習の場が停滞しているのは事実です。茨城有権者の会でも、政治に関する無関心の話が出ました。でもあきらめたら終わりだ、という意見には皆さんうなずいていました。

 解散したシールズの活動を思い起こしても、若い人たちが一括りに無関心とは言えません。新しい芽吹きはあると思います。それがどのような形になってゆくのか。私たちもう若くない世代が、しぶとく、出来ることを続ける必要があるのでしょう。

桜に想う

 ほとんどの小学校、中学校の校庭には桜が植えられています。私たちにとって桜はごくありふれた花ですが、同時に特別な花です。奈良時代には梅に人気がありましたが、平安時代以降、花といえば桜を指すようになりました。桜を詠んだ歌としてよく知られている二首。私も大好きな短歌です。 

 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平朝臣

 ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎのもち月のころ    西行

 私ももう少し若い頃は、桜を美しいと思っても、それだけでした。夜桜に不気味なほどの美しさを感じても、やはりそれだけでした。ただ、西行法師の「花の下にて春死なむ」の句は、深く心に染み込んだ歌でした。

 お世話になった故高木きよ子先生(宗教学)も、桜に憑かれた方でした。『桜百首』のあとがきで、いつのころよりか桜の季節になると落ち着かず、「毎日桜を求めては東京中を歩き廻るのが常になった」と書かれています。紫がお好きで、おしゃれな方でした。先生を通じて、短歌の世界に触れることができましたが、私には歌心がなかったようで、残念ながら続きませんでした。それでも、私も年とともに、短歌にまた関心を持つようになり、桜の季節になると、桜を求めて車を走らせるようになりました。

 さくら花はよ散れよかし咲ける間は心すずろにせんすべをなみ  高木きよ子

 まだここまでは思いませんが、桜への思い入れは、日本人には強いようです。どこから来ているのでしょうか。

f:id:miyauchi135:20170413233315j:plain  f:id:miyauchi135:20170413233438j:plain

那珂市阿弥陀寺の枝垂れ桜(樹齢300年)(4月10日)   水戸市六地蔵寺の枝垂れ桜(4月13日)

『ニュー・シネマ・パラダイス』:痛みの中で、今を「肯定」する

 『ニュー・シネマ・パラダイス』の完全版(ディレクターズカット版)を観ました。1988年に公開されたイタリア映画です。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。劇場公開の短縮版は123分、ディレクターズカット版は173分です。劇場公開版は内外で高い評価を受け、イタリア映画の復活を印象付けたと言われています。エンニオ・モリコーネの音楽もよく知られています。

 50分違うというのは大分違うと思いますが、映画の主題が大きく変わっていると言われます。私は劇場公開版(短縮版)を見ていないので何とも言えませんが、短縮版では映画館「パラダイス座」が物語の中心になっているそうです。ディレクターズカット版では、主人公の人生に焦点が当てられています。是非劇場公開版も見てみたいです。

 ディレクターズカット版は、確かに主人公トトの成長物語でした。映画への愛情とエレナへの愛情が両方描かれていましたが、どちらかというとエレナへの思い入れの方が強く印象付けられました。ずっと引きずっていたエレナへの愛。なぜ突然いなくなったのか、それに深く傷ついたままの人生。最後の場面で、教会の司祭によって削除されたラブシーンをアルフレードが編集したものを見つめるトト、その目に涙が浮かんでいました。

 劇場版を見た人たちが感動し涙した場面が、そのせいか、私にはなるほどなあ、で終わりました。もちろんアルフレードの映画への愛とそれをトトに託した思いも伝わってきました。ただ、私は、「人生で、すべては手に入れられない」という思いで観ました。でも、それゆえの、今の自分を「肯定」する深みも生まれると。

 いい映画というのは、単純に「見て良かった、面白かった」では終わりません。そこにやはり人生の一瞬があり、それを観ている側も体験します。劇場公開版を観たら、何を体験するのか、興味があります。

ケアにおける客観性4)ーー生の「展開」から評価する

 ケアにおける客観性をニーチェの系譜学の手法から考えてきました。取りあえずまとめておきたいと思います。

 ニーチェの系譜学的解釈は、解釈の良し悪しを、複眼的に解釈する技術です。生の遠近法の創造性と解釈している力の質を、生肯定か生否定かという基準から、解釈の価値を判断評価します。ケアにおいて相手に寄り添うというとき、この複眼的解釈と解釈の意味を精査する基準点は重要になってきます。

 例えば、『道徳の系譜』の第3論文では、「禁欲主義的理想は何を意味するか」が問題にされています。禁欲主義的理想は、哲学者や学者にとっては、「至高の精神性の有益な諸条件の一つ」ですが、生理的に変調をきたしている者にとっては、自分たちは「この世に適応するには<善良でありすぎる>と見せかけようとする一つの試み」だと言われます。

 ニーチェは、一見同じように見える解釈が、解釈する生の必要性から切り離せないことを指摘しています。解釈はこのように、生理的状態の「徴候」として多様です。系譜学的解釈は、解釈の系譜(価値の発生)を問うという形で、価値解釈を価値を占有する力の位置と関係に解体します。

 価値解釈を生存の中で記述する。例えば、自己犠牲の徳を、生存の必要性の中に位置付け直すことで、ある意味自分を縛ることや自分に酔うことから解放すると言うことです。自己犠牲の徳の意義をすべて否定するつもりはありません。それが何を意味するかを問うと言うことです。それは道徳的価値解釈を、道徳的価値体系の中の一部としての位置づけから解放します。このような批判は、現存の秩序を基礎づけるための吟味ではなく、新たな創造(解釈)へと向けられたものです。

 そしてもちろん、このような系譜学的評価もまた、遠近法的であり、相対的なものになります。

「『私の判断は私の判断だ。他人がこれをあっさり自分のものにする権利などありはしない』――おそらくこう未来の哲学者は言うであろう」(『善悪の彼岸』43)

 系譜学的評価は、それゆえ結果責任を引き受ける判断でもあります。系譜学的解釈はルールを立てません。それは多様な価値解釈に個別的に加えられる系譜(価値発生)の検討なのです。一般的解釈を生み出すルールに帰着するなら、普遍的原理主義の立場になってしまいます。

 しかしニーチェの系譜学の立場は、何でもありの否定も肯定もしない懐疑の立場ではありません。それは評価判断する立場です。多くの遠近法を自在に駆使し、かつテキストに忠実な文献学的慎重さによって注意深い客観性の立場を保ちつつ、生肯定か生否定かの規準から、それぞれの価値解釈に評価判断を下します。そうすることで、判断を下してその結果を引き受ける勇気と、自らの責任によってそれをなすという自立自存の能力も生み出されます。

  ケアにおいて相手に寄り添って解釈判断すると言うことは、相手の判断を自分の判断として鵜呑みにすることではありません。その意味で、多数の遠近法を自在に操る能力と原典をゆっくり深く読む、「よく読む」技術としての文献学的能力は、重要になってきます。問題なのは、そこで何を基準にそれぞれの解釈を、評価判断するかということです。ニーチェでは生に無垢を取り戻し、創造性を取り戻すために、解釈をしている生の質が「生を肯定しているか否定しているか」が基準でした。

 では、ケアを必要とする一人ひとりが持っている解釈の意味を、ケアする側はどこから評価判断し、どのように応答してゆくか。それは介護を必要とする人たちが、介護する側に示している「(人間が)生きるということそのもの」とつながっていると思います。生の可能性としての、生の(直線的発展・進歩ではない)「展開」という視点が出てくるのではないでしょうか。

東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展

 最終日に滑り込みで、見てきました。やはり圧倒されました。68面の襖絵すべて展示されていました。鑑真上座厨子のある松の間は、「揚州薫風」と題された26面の襖絵が描かれています。これは和上の故郷を描いた水墨画です。東山魁夷水墨画は、始めて観ました。観ているうちに、それを描いている画伯の息づかいのようなものを感じて、身が引き締まりました。

 宸殿の間の濤声16面、青の世界。本来あるべき場所に収まった映像も流されていて、やはり展示も素晴らしいですが、襖絵として収まっている様子は圧巻でした。いつか観れる機会があったらぜひ観てみたいです。

 一人のモーツァルトの陰には100人のなりそこなったモーツァルトがいる、というようなことを以前読んだ記憶があります。なりそこなったモーツァルトはそれでも幸せなのかな、とふと思いました。なりそこなった100人の東山魁夷がいるからこそ、私たちはこの成果を目にすることが出来ている。でもなりそこなった東山魁夷は、やはり幸せなのかも。作品制作に集中できる時間を持てるということは、たとえそれで生活できなくても、意味のあることなのでしょうね。むしろ東山魁夷自身の道程の方が、キリキリと自分を追いこんでゆくような厳しいものなのだろうと感じました。

f:id:miyauchi135:20170402233020j:plain  f:id:miyauchi135:20170402233359j:plain

    茨城県近代美術館                 美術館の前からの風景

 

今生きること

 明日から4月です。でも明日はまた寒いという予報。

 25日の春合宿の参加者の方からの感想をメーリスで読ませていただきながら、いろいろ考えています。私は認知症初期の方の介護の現場にいるので、作業療法士の川口淳一さんの活動について知ることができたのは、大きな収穫でした。

 認知症状を持つ方たちは、記憶に混乱が起きています。今がいつなのか、かなりあいまいになって来ている方も多いのですが、デイでは皆さんそのことにそれほどショックを示されません。他の方もそうだ、と分かるからでしょうか。自分のしたことや言ったことを忘れてしまえる。されたことも忘れてしまえる。皆さんは今「に」生きていると感じます。そのことに救われる思いがします。毎回、私は皆さんと新しく「出あって」います。それは皆さんが、そういう態度で私に向き合ってくれるから。対他関係で、相手に対する自分の印象記憶を忘れることができると言うのは、すごいことだと思います。

 認知症状を持つ方たちは、主体的に今「を」生きることには困難を持っています。そこを周りにいる私たちがフォローできれば、皆さんは穏やかに笑顔で生活してゆけるのではないでしょうか。生活のリズムを作ることや健康を維持するやり方を、具体的に一緒にやってゆくことで、今「に」立ち竦まないようにする。そうできれば、思いもかけない楽しい応答をしてくれます。

 5年先の自分をイメージして、とか10年先の成りたい自分から「今」の自分の課題が分かります、というようなことがよく言われます。成程なのですが、それに囚われすぎると、今・ここがおろそかになる気がします。社会システムの構築の場合は、確かに10年先を見越したプログラム作成が必要だと思います。ただ、一人ひとりの生き方や生活では、「今」に集中する(今「を」生きる)ことは心を解放することでもあると思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp