宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

感情的囚われからの解放

 他人からの評価は気になるし、その意味でも人間関係に悩む人は多いと思います。かくいう私も、職場の人間関係は難しいと感じています。距離のとり方の難しさでしょうか。人にはその人なりの「こころの癖」があり、それをスキーマと呼びます。これがそれぞれの思い込みの世界への閉じこもりの引き金になるようです。私の場合は、深読みの傾向があり、基本感情移入しすぎないことが、ポイントなのかもしれません。以下、大野裕さんの『初めての認知療法』(講談社現代新書)を参考に特徴的な「こころの癖」を羅列しておきます。

 1)思いこみ・決めつけ。「いつも」とか「必ず」というような決めつけ言葉が入っているときはその傾向あり。2)白黒思考。あいまいな状態に耐えられず、割り切ってしまおうとする傾向。3)べき思考。現実を無視して、「何があろうとこうすべき」という考えに縛られ、あれこれ悩む。4)自己批判。カラスが泣くのはカラスの勝手でなく私のせい、というようになんでも自分に問題ありと考えてしまう。5)深読み。相手の気持ちを一方的に推測して、悪い結果を勝手に読み取り、決めつけてしまう。6)先読み。自分で悲観的な予測を立て、結果、失敗を繰り返す。

 では、自分の思い込みから解放されて、現実に目を向け、自分の考えと現実を見較べるためにどうするか。例えば、失敗したときは、事実と感情を分けることが大切だと思います。事実と感情を分けるためには、「観察・記述」が重要です。仕事において失敗したら、原因を探って、どうすれば失敗しないかの自分なりの工夫をすればいいわけです。評価を下げたのではないかと考えたり、あるいは注意を受けて落ち込む前に、起こったことを観察し記述し続ける。事実を見つめ続けることで、「真実」が見えてきます。失敗はむしろ学びのチャンスです。

 と言ってもなかなか、そういう気持ちの切り替えができなかったりします。そこで、感情に囚われずに観察し続けることができるためには、自分が何のためにこの仕事をやっているのか、目的は何かを明確にしておく必要があると思います。初心に帰る、という言葉がありますが、立ち戻る原点は重要です。落ち込んだとき、マンネリを感じるときなど。

 大体、失敗したときは全体的に判断する力が落ちて視野狭窄に陥りがちです。あるいはそういう状態だから失敗するとも言えます。自分のこころが負の感情に支配されないために、観察し続ける必要がありますが、そのとき、目的や目標は失敗した「今」から、少し未来へ気持ちを切り替えるという役割を果たすと思います。ただし、目的・目標に囚われすぎると「今・このとき」の現実が見えなくなりますが。

福祉と幸福

 福祉は英語でwelfare。健康で快適な生活を含めた意味での幸福(happiness)を意味します。

 幸福は主観的なものと客観的なものに分かれ、主観的な幸福とは内的満足のことです。客観的幸福は幸運と同義語で、満足を考慮しない達成した目的そのもの、善そのもののようなものです。主観的幸福も立場によって、精神的充実を意味するか、快の充足を基本にするかなど、微妙に定義が異なります。

 三木清の『人生論ノート』には「幸福について」という一文があります。彼は幸福は人格だと言います。そして人が外套を脱ぎ捨てるように、いつでも気楽に他の幸福(富とか栄誉とか)を脱ぎ捨てることのできる人が最も幸福な人だと。

「彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」

 そしてその幸福は常に外に現れ出て、他の人を幸福にする、と言われます。機嫌のよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なことなど。

 私の好きな幸福論の一つです。でも、快い暮らし向きを目指すことから始まる福祉もまた、人間の幸福の条件として大切だと思っています。確かに、暮らし向きがよいだけでは、人は幸福ではないのかもしれません。幸福には充実感が大きな役割を持っていると思います。しかし、その充実感は、普通、日々の暮らしに集中できないと得られないでしょう。貧困も私たちの世界では、絶対的貧困状態よりも、相対的貧困状態が問題です。快い暮らし向きとはどういうものか、考えておく必要があると思います。

政治の責任

 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣されている自衛隊の即時撤退を求める集会が、17日東京都千代田区の衆議員第一議員会館で開催された、と新聞報道されていました。

 昨年7月11日、12日の陸上自衛隊の日報は、昨年末時点では、破棄されたと言われていました。一転、2月7日、一部黒塗りで開示されました。日報には、ジュバでの当時の大規模衝突で270名以上の死者が出ていた状況が「戦闘」と記載されています。これに対し、稲田朋美防衛相は戦闘ではなく「武力衝突」であると答弁しています。

 17日の集会では、このような言い換えで切り抜けようとする政府への不信感が、あらわになりました。政府は、結局、国民に何も知らせようとしていないのではないか。まさに「由らしむべし知らしむべからず」(『論語』)。自衛隊員のお母さんで「平和子(たいらかずこ)」の名前で、南スーダンへの派遣に反対する活動をしている北海道の女性が、自衛隊派遣の即時撤廃を訴えました。

 このような言いかえは政権が多用しています。「共謀罪」は(一般市民は関係ないと言われていたのにどうも処罰対象に入っているような)「テロ等準備罪」、「安全保障関連法」は(戦争に巻き込まれる可能性は高くなっているのに)「平和安全法制」、昨年12月の沖縄県名護市沖でオスプレイが大破した事故を、翁長雄志知事が「墜落」と表現したら、それを「不時着」と主張。6日後に地元の反対を押し切って、オスプレイの飛行は再開されました。政治の責任とは何なのでしょう。

 現場の責任感が、事態を何とか最悪に至らせなかった事例を二つあげます。一つ目は2011年3月11日午後2時46分、「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」という遠藤未希さん(24)の防災無線での呼びかけです。彼女は、宮城県南三陸町の町職員でした。30分後、職員に避難指示が出されましたが、津波後、屋上で確認された10人の中に遠藤さんの姿はありませんでした。町民約1万7700人の半数近くが避難して助かりましたが、彼女はその職責を全うする中で、命を落としました。9月に結婚の予定だったそうです。

 ひたちなか市も3.11の時には、被害を受けました。そして今なお、東海第2原発廃炉問題を解決できずにいます。3.11の時にも、津波(5.4メートル)があと70センチ高かったら、電源喪失の事態を迎えるところでした。ディーゼル発電機冷却水を送る水中ポンプ室を覆っている6.1メートルの壁は、震災1週間前に出来上がったばかり。しかも大きな壁の穴を埋めたのが3月9日。しかし、隙間から入った水で3台ある非常用発電機のうち1台が使えず、2台で凌ぎました。ただし力不足で、自動での操作がうまくゆかず、170回手動でコントロールしたそうです。

 上二つの事例は、現場の責任感が状況を最悪に至らせなかった例です。しかし、政治は、現場の職員たちが、命がけになる事態を出来るだけ減らす責任を持っているのではないでしょうか。政治家は政治の責任をどう考えているのか。どうも市民の生活を守ることを第一義には考えていないようです。「大きな視点で見て」と言われそうです。でも「神は細部に宿りたもう」。

 アビ・ワールブルクの言葉として知られています。出典は定かではありません。古代ヘブライ世界に由来するとか、中世哲学では有名だったとか言われています。細部に拘泥することを言っているのではなく、細部からこそ全体が見える、あるいは細部をないがしろにしないことで、真の全体が組み立てられるというような意味のようです。ミシェル・フーコーが『言葉と物』なかで、「神の視点では、どんな無限の広がりといえども一つの細部より大きいわけではない」と書いています。

 施設で火事の避難訓練がありました。その時に感じたのは、これでは何かあったとき逃げられない、ということでした。そして職員もまた、逃げられない、と。自然災害にももちろん備える必要がありますが、人為的な、避難を余儀なくされる状況は備える前に、改善できるものは改善すべきだと思っています。市民一人ひとりの生活の基盤を守ってこその政治ではないでしょうか。

ひな飾り

 今日は、東海村のテラパークで開催されている「つるし雛」展に行ってきました。4年くらい前に、伊豆の稲取温泉に「つるし飾り」を見に行ったことがあります。ひたちなか周辺では、つるし雛という言い方をしていますが、稲取で「お雛様をつるしているわけじゃないでしょ」と言われました。言われてみれば、その通りですが、「つるし雛」という言い方にはどういう意味合いがあるのでしょうか。

 稲取のつるし飾り展では、何組ものひな壇の周りに、それぞれにつるし飾りが何十本という数でつるされていて、見事でした。日本3大つるし飾りの一つです。静岡県では「雛のつるし飾り」と言われます。福岡県では「さげもん」、山形県では「傘福」と呼ばれます。どれも江戸時代後期に始まったようです。稲取の「つるし飾り」は、お雛様を買えない庶民の家庭で、女の子の健やかな成長を願って始まったと言われます。端切れで小さなお人形さんを作って、つるして飾ったようです。お雛様の代わりの人形の意味で、つるし雛なのでしょうか。

 もちろんお人形だけでなく、羽子板とか桃とか草履、枕などもつるされました。それぞれに意味があります。羽子板は、厄を飛ばす。草履は、足が丈夫になるように。桃は女性の象徴で、女の子の厄払い、多産と薬用効果、延命長寿を願ったそうです。枕は寝る子は育つから来ています。巾着はお金がたまり、お金に困らないように。雀は五穀豊穣を表し、食に恵まれるように、大根は毒消し等々。この「もの」に託された願いのなんと素朴で豊かなことか。

 「うれしいひなまつり」の歌はよく知らていますが、ちょっと物悲しいメロディーです。ホ短調で、歌詞も優雅です。私は3番の最初の2連が好きです。「金の屏風に うつる火を かすかにゆする 春の風」。ひな祭りの宵の情景が浮かんでくるような詩です。2番の後ろ2連も何となく物悲しいです。「およめにいらした ねえさまに よくにた 官女の 白い顔」。

 つるし飾りにつるされる「もの」のある種の逞しさや健やかさと、少し趣が異なっています。どちらも女の子の健やかな成長や幸せを願ってのものですが、ひな壇に雛を飾るというのは、贅沢なものだったんだと思います。そしてその贅沢さは、どこか寂しさを漂わせ、ある種の怖さ(夜のひな壇のイメージ)を感じさせます。人形は美しければ美しいほど、ちょっと不気味です。これって何なのでしょう。

社会福祉は「われわれ」の範囲の拡張

 先週の9日(木)は天気予報通り、雪でした。車のタイヤを雪対応にしていなかったので、ゆっくりゆっくり、大通りを選んで運転しました。午後には雨に変わって、帰る頃には、道路の雪はほとんど溶けていました。やれやれ😥。

 今日も晴れていますが、やはり風は冷たいです。昨日、4歳くらいの女の子がリュックを背負っているのを見ました。その中からぬいぐるみの犬が顔を出していました。思わずほっこりする光景です。高齢者とほぼ毎日関わっていますが、(学齢期前の)子どもと高齢者は親近性が高いと言われます。繰り返しが好きとか、可愛いものが好きとか。高齢者や子ども、そして障がいを持った人など、社会的弱者を支援する社会福祉の底にあるのは何なのでしょうか。

 意味ある目的を達成することを重視するのが現実の社会です。行動は成果を問われる、と言っていいと思います。子どもや高齢者はそういう成果主義的目的達成を問われることはありません。成果を問われるというのは、評価されることですが、その基準はお金、名誉、権力と言っていいでしょう。

 これに対し、子どもや高齢者は自分の欲求に従って行動することが、奨励されます。子どもはその行動を通して、自発性を促進し、社会的約束事を学習します。では高齢者は?「元気で長生きすること」でしょうか。子どもにとっても高齢者にとっても、それぞれの行動の意味は、主観的には快の達成ということでしょう。

 どちらも「最大多数の最大幸福」の達成とは言えるかもしれません。これは功利主義の尺度です。これに対して、動機主義・心情主義の立場がよく対比されます。行動は結果で評価されるのでなく、その動機が重要だという立場です。誰かを助けたいと思って取った行動(溺れかけている人を助けようとして一緒に溺れてしまった)は、結果が悪くても評価されます。功利主義帰結主義の立場に立つと、これは厳密にはマイナス評価です。なぜなら、一人の人が溺れるより悪い結果を招きましたから。

 私たちは通常、両方をバランスをとって、使っていると思います。溺れかかっている人を助けようとして一緒に溺れてしまった場合、それを非難したりはしません。しかし、自分が助けられないと分かって、助けなかった人を非難したりもしません。動機主義の代表者と捉えられているイマニュエル・カントも、不完全義務と完全義務という言い方をしています。人が溺れそうになっているとき、通報の義務は不完全義務としてはあると思います。

 完全義務というのは、やらなければ非難される行為、やっても褒められるわけではない行為のことです。例えば、「自分が得をするために嘘をついてはいけない」は守られなければ非難されるし、場合によっては罰せられますが、そういう嘘をつかないからと言って、褒められる訳でもありません。不完全義務とは、やらなくても非難されないが、やれば褒められる行為です。慈善的行為はこれにあたります。カントはこの二つの義務を区別し、さらにそれを自分に対するものと他人に対するものに分けています。自分に対する完全義務には、例えば、自殺の禁止があります。自分に対する不完全義務には、例えば、自分の能力を育てることがあります。

 では、社会福祉の考え方は、何に基づくのでしょうか。人間一人ひとりの人権と幸福(福祉)の増大には、社会が責任を持たなければならない。これは社会全体の幸福の増大のためでしょうか。それでは不十分でしょう。なぜなら、「最大多数の最大幸福」では少数者の切り捨てを防げませんから。ストレートに「人間は一人ひとりが目的そのものである」という立場で、人間の尊厳を語るのは、動機主義の立場です。

 さらに言えば、リチャード・ローティが、民主主義とは残酷さを減らすことだと言っているような、他者の痛みへの想像力や感受性に基づく「われわれ」の範囲の拡張と捉えたいと思います。ヨーロッパの「福祉はアートなり」という定義にもつながると思います。そう言えば、教育はアートである、というのはシュタイナーの教育観でした。

『サヨナラの代わりに』:人は人と関わることで変わってゆく

 気になっていた映画『サヨナラの代わりに』(2014年)をビデオで見ました。主演はヒラリー・スワンク。裕福な生活をしていたケイトは、35歳でALS(筋委縮性側索硬化症)を発症します。1年半後、車いす生活になったケイトは、介護者から病人扱いされることに辟易して、夫の反対を押し切って、女子大生ベックを雇います。ベックは、何をやっても上手くゆかず、歌手になるという道にも今一歩踏み出せずにいます。この二人がそれまでの生き方(セレブなケイトvs.中途半端な生活をするベック)や性格(完璧主義のケイトvs.自由奔放なベック)の違いを乗り越えて、ぶつかりながらも信じ合い、支え合ってゆく姿が描かれていました。難病を抱えて生きることが、決してきれいごとではなく描かれていました。

 ALSは脊髄にある運動ニューロン神経細胞)が侵される病気です。運動ニューロンは身体を思い通りに動かす随意筋を支配しています。知覚神経や自律神経は侵されないので、感覚や知性は最後まで保たれています。ALSになると痛みの感覚はあっても、それに反応して自分の身体を動かせない状態になります。心臓や消化器は自律神経に支配されていますが、呼吸は自律神経と随意筋である呼吸筋の両方が関係します。最後は呼吸筋が弱くなって呼吸困難に陥って、死に至ります。

 この病気を発見したのは、フランスの神経科医J・M・シャルコー(1825-86)ですが、フロイトは1885年から86年にかけて、彼に師事して、ヒステリーに関心を持ちました。フロイトの主著の一つ『ヒステリー研究』は、1895年にブロイアーとの共著として書かれています。

 ALSは、通常発症から5年くらいで死に至りますが、英国の物理学者スティーブン・W・ホーキング博士(1943-)は、途中で進行がきわめて遅くなって、発症から50年以上生存しています。彼は一般相対性理論量子力学を結びつけた量子重力論を提示しています。サイエンスライターとしての才能も持っている人で、その著作は各国で翻訳されています。現代宇宙論に大きな影響を与え続けている人です。アメリカでは大リーグのルー・ゲーリック(1903-41)がこの病気で亡くなっていて、ルー・ゲ―リック病とも言われます。

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 映画に戻ると、死にゆくケイトがベックに、そのままのあなたを見つめてくれる人を見つけてと伝える部分、ベックがケイトに私を信じてくれてありがとうと伝える部分、そしてベックが歌い手として「雀が空に飛び立つ」と歌う最後の場面、感動的でした。人が変わるには、人と人が深く出あうことが必要なんだと感じさせられるドラマの一つです。

 アサーションの基本の考え方に、「他人と過去は変えられない」と言うのがあります。確かに「他人を変えること」はできないと思います。ただ人は良くも悪くも変わります。その人の命を輝かすような変わり方は、真摯に人と人が向き合うときに起こることも、事実だと思います。

 ヒラリー・スワンクの『フリーダム・ライターズ』もそういう映画でした。彼女が演じたエリン・グルーウェルは実在の教師で、その教育実践が注目された人です。ヒラリーは、底辺に生きる生徒たちの現実に向き合って、絶望的状況を少しでも希望へと歩みだせる状況へ変えようと苦闘する教師を演じていました。ヒラリー自身が苦労した人のようで、ヒューマン・ドラマを単に正論ドラマにしない力を持った女優だと思います。

介護ケアをシュタイナーの人間観から考える

 もうじき立春ですが、まだまだ風が冷たい毎日です。2、3日前に春の陽気が訪れました。ちょっと狂った季節という感じから、3月兎を思い出し、『不思議の国のアリス』にイメージが飛びました。

 ところで、芥川龍之介の短編に『河童』という作品があります。出だしは、どこか『不思議の国のアリス』を思わせます。主人公は気を失って、気づいたら河童の世界にいた。河童の世界は、人間の世界といろいろなことが逆さまです。例えば生まれてくる前に、胎児河童は「生まれてきたいか」と尋ねられます。生まれたくないと答えると、胎児は消えます。作品の中では、胎児河童は「河童的存在を悪いと信じているから」と生まれ出て来ることを拒否します。「生まれても結局死ぬ訳ですから、わざわざ生まれたくありません」なんて答えも想像できますね。

 人間は生まれたときから死に向かっているとも言われます。まあ、今のところ、死なない人間は見つかっていないので、いずれ寿命が尽きます。生まれてきた以上、私たちはみな死にゆく存在です。私たちは生まれてすぐにケアを受けて育ち、そして障がいを持ったり、高齢になるとケアを受けます。ここでは高齢者のケアの目標を考えてみたいと思います。

 まず育児や教育のケアは、「成長」を目標にしています。当然そこには、人間存在の意味や人生の意味が踏まえられています。ルドルフ・シュタイナー(1861-1925年)により創設されたシュタイナー教育は、その背景的なものに人智学を持っています。シュタイナー教育とは何かと言えば、身体と心の調和的発達によって「自我」を自由にしてゆく教育実践、と言っていいと思います。頭から入ったものは身体へ、身体から入ったものは頭へと言われるような教育実践をしています。それは自由な教育ではなく、「自由への教育」と言われます。高橋巌さんの『シュタイナー教育の方法』(角川選書)には、「シュタイナー教育とは何か」についてこう言われています。

「発達期に応じた身体と心の調和化によって社会における個人の自己実現を可能にしようとする教育思想、あるいは教育運動」(14頁)

 シュタイナー教育については、また別の時に触れることもあると思います。私自身は「自由への教育」という理念とそのユニークな教育実践に関心がありました。フォルメンとオイリュトミーは、20代の頃、講習会や勉強会で少しやってみましたが、踏み込んで向き合うところまでは行きませんでした。

 さてシュタイナーの人智学の中で老年期は、どう扱われているのか。シュタイナーは現代人は自分の魂の内的な発展の道を失ってしまった、と捉えます。かつては魂と肉体が深く結びついた状態の中で、それぞれの年代らしく発達出来た。ところが現代の私たちは、20歳くらいで、その関係が切り離されてしまう。20歳くらいですべて人生を学んだ気になってしまう。後は、肉体の衰えをただ悲観的に受け取るようになると言うのです。

 シュタイナーは自我、肉体、アストラル体、生命体(エーテル体)の4つを人間の本質部分と捉えます。そして、肉体は衰えても、他の3つは老化する一方ではなく、若返ることもできると言います。本来、人間の50歳以後は、見霊能力を発達させる時期だと言われますが、現代社会ではここが失われているし、この考え方自体も否定されていると思います。

 古代人は肉体の衰えと共に、魂は肉体の拘束から離れ始め、意識はますます明るくなっていく状態の中で老年期を迎えると言われます。ところが現代人は、10代後半には魂は肉体の拘束から離れ、肉体と共に年をとることができません。外側から老人になりつつあることを納得させられても、魂そのものは若い時と変わらない。以前なら、60代の人は60代にならなければ持てなかった成熟した魂を持っていました。

「老人特有の感性が発達してきて、死者との出会いがあったりしました。自分の魂が非常に軽やかになり、お祈りの仕方が深まり、欲がなくなるので、利己的にものを考えずに、客観的にものを考えることもできました」(高橋巌、同上書、204頁)

 現代において、心の若さということが、20代くらいの感性を持っている、と捉えられています。心あるいは魂が、身体から早くに切り離されることで、成熟することができなくなったからですが、では、その状況の中で逆に感受性をみずみずしいままに保つにはどうすればいいのか。介護ケアはここに関わっている気がします。

 私は死の瞬間に魂は身体から解放されると思っています。魂の不死をどう考えるかは哲学ではずっと問われてきました。魂の不死自体に関しては、私は不可知論ですが、ただ死の瞬間とは、魂だけになる瞬間だと考えています。身体の衰えのケアは、この魂だけになる瞬間を見届けるケアでもある、そういう風に考え始めました。

 

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