宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

政治的抵抗

 抵抗と団結という言葉をよく聞きます。ここでの抵抗は、政治的抵抗と捉えて良いと思います。団結はその流れで読めばよく分かります。ローティは連帯という言葉を使います。連帯は、政治的場面でも使われますが、ドイツの生命倫理答申の報告書にもありました。

「連帯は隣人愛と同胞精神の思想,すなわち困窮する他者を救済し支援せよという訴えと密接に結びついている」(『ドイツ連邦議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝子情報』46頁)

そして、連帯は労働運動の中で、連帯主義社会とか連帯主義的世界秩序という目標へと拡張されたと言われています。

 ローティの連帯の思想は、残酷さを減らしたいというリベラルな立場に基づきます。民主主義社会の成熟へ向けての、ローティのリベラル・アイロニストの思想は、理性的必然としてではなく、幸運なる歴史的偶然として展開されています。これについてはまた、改めて考えたいと思います。

 まず政治的抵抗とはどのようなものか。ジーン・シャープによると、非暴力闘争(抗議、非協力、そして介入)が挑戦的に、また活発に政治的目的に使われたものと言われます。独裁政権から政治機関を奪い返す目的で、政治的環境において非暴力闘争を繰り広げることを意味しています。単に非暴力闘争とか非暴力抵抗という場合は、もっと広い目的、社会・経済的目的とか心理的目的にも関連します。

 また政治的抵抗の思想は、調停・妥協・交渉を否定します。それは不可能であると。交渉は、妥協があってもよい場面では有効ですが、根源的問題が対象になる場面では、交渉は解決をもたらさないと言われます。宗教的原理とか、人間の自由、あるいは未来永劫における社会発展などが争点になるとき、これらをまともに擁護できるのは、民主化勢力側に力関係がシフトしたときだけです。この実現には闘争が必要であって、交渉は現実的ではないと言われています。もちろん非暴力闘争ですが。

 私たちの政治的状況は、独裁政権とは関係ない、そこまで酷くないように思えますが、本当のところはどうなのでしょうか。ウィンウィンの関係は好ましいですが、政治的権力が関わる場面では、市民と政治権力とのウィンウィンの関係はまずあり得ません。

 例えば、昨年末、地方自治を軽視するような最高裁決定が続きました。東京都国立市のマンション訴訟で、12月13日、上原公子元市長の上告が退けられ、3100万円の支払いが命じられました。この金額は遅延損害金(利子)が加わって、4500万円近くになります。辺野古移設問題でも、最高裁は弁論を開かず、上告審判決が12月20日に言い渡され、沖縄県の全面敗訴が確定しました。憲法第92条の地方自治の本旨最高裁はどう判断しているのでしょうか。

 地方の時代とは何なのか。私たちは自分たちの生存環境をどうやって整えていったらいいのでしょうか。出来る所から始めるしかありません。そしてそれはやはり、政治的抵抗の問題に、行き着く気がします。

認知行動療法

 認知行動療法について知り合いから聞かれました。以前に講師をしたアサーションに関するセミナー(女性プラザ男女共同参画支援室にて)で、少し触れたことがあります。セミナー出席者で、認知行動療法に関心をもっている方がいて、セミナーが終わってから、その話になりました。私の専門ではありませんが、少し考えてみたいと思います。

 認知行動療法というのは、神経症やノイローゼの人たちが感じる不安の治療技法として展開したものです。不安を生じさせる「感情の癖」を改め、解除する別の習慣へと再学習して訓練します。これらは最初行動療法で行なわれていました。それらはアルベルティとエモンズによって、アサーティブネス・トレーニングとして発展させられ、さらに万人の能力開発に展開しました。この行動療法は健康な人がより健康になるための教育的アプローチになり、それが認知の領域にまで拡がっていきました。これを最初に提言したのが、アルバート・エリスです。

 エリスは、論理療法の創始者です。論理療法とは簡単に言うと、刺激があって反応が生じるのでなく、刺激はそれを受けた人の考え方・信念を通過して反応を生み出す、ということです。例えば、誰かに嫌われたとします。嫌われるのは嬉しくはありませんが、そういうこともあると淡々と受け止めるか、ひどく落ち込んでしまうか、分かれます。これはその人の信念が影響しているからだということです。誰からも好かれなければならない、誰からも好かれたい、という信念を持つ人は、「あなたのこと嫌い」と言われれば、世界が終わったような気になるかもしれません。

 しかし、誰からも好かれたいという願望が、適うことはまずありません。自分のことを考えてみても、好きな人と苦手な人がいます。そう考えれば、お互い様です。苦手な人を無理に好きになる必要はないし、そういうものとして対応すればいいだけです。同じように、自分を好きになってくれる人もいれば、嫌いだと感じる人もいます。まあ、はっきり嫌いだ言われればショックですが。よく言うな、と思うしかないし、それで良いのではないでしょうか。他人は変えられませんから。自分に無理する必要もないし。

 というようなことが、論理療法です。単純化しすぎているかもしれませんが。エリスは、ビリーフ(信念)を合理的なラショナルビリーフと非合理的なイラショナルビリーフに分けます。ラショナルビリーフは、事実に即した、飛躍の無い、論理性の在る考え方で、自分や他人を支援する考え方です。これに対して、イラショナルビリーフは、反対の傾向を持ちます。妄想に近い考え方、事実を見ていない思いこみ、飛躍のある論理性のない考え方、自分や他人を否定するような考え方です。

 難しいのは、理想を掲げる場合です。でも、それが自分の生き方や他人の生き方、現実の社会を全面否定する場合は、イラショナルビリーフになっていると考えていいと思います。何のための理想なのかと言えば、今を少しでも良くするためであり、全面否定するためではないと思います。ただこの考え方は、非人間的な独裁体制への政治的抵抗の問題を考えるときには、当てはまらないので、注意が必要ですが。

急いではいけない

 認知症と明らかに分かる人と、一見分からない人といます。認知症と分かる人の場合、その反応のし方の、ある意味理不尽さにも、病気なんだからと了解できます。ただそうでない場合、おそらく本人には理由がある反応のし方に、こちらが傷つくことがあります。突然表情が変わって、ぷいっと席を立たれたりすると、驚きと同時にずしんと響くものがあります。

 その前の一連の流れを思い返すと、本人が納得いかないまま、分からないまま何かをさせられているという苛立ちなのかもしれないと思い当たりました。他の人に画面が見えるように、もう少し席を移動してほしいというこちら側の依頼も、なぜそれをさせられるのかが自分でははっきり分からないうちに、椅子を移動させられて、ということから来ていたのかもしれません。ゆっくり説明して、移動を納得してもらって、自分で動いてもらう、という手順が上手く行かなかった。急きたてられている感じがして、苛立ったのでしょう。

 映像が始まっていたので、こちらも急いでしまいました。でも、認知症状が出ているというのは、周りの状況を見て判断するというようなことが困難になっているわけですから、スケジュールを組むとき、目いっぱい時間を使う形にならないよう、よくよく考える必要があると感じました。

 訳の分からない反応への驚きは、こうして書きながら振り返ってみると、見えてくるものがありました。

「私」って誰?

 『ソフィーの世界』(ヨ―スタイン・ゴルデル)という哲学ファンタジーが、1995年に翻訳出版され、一時期、女子高生たちも電車の中で読んでいる、と話題になりました。その後映画化もされました。

 主人公のソフィー・アムンセンは、ある日不思議な手紙を受け取ります。「あなたはだれ?」。2通目の手紙は「世界はどこからきた?」。この二つの問いが、ソフィーを哲学の世界に誘います。

 私が私であることは何によっているのでしょうか。記憶?身体?免疫構造?それは「私」が何を意味するのかにもよります。時間と空間を別にする存在のまとまりということなら、身体や免疫構造が「私」の本質になります。

 西洋近代の主観主義は、デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」から始まりました。この「思うわれ」と「われの存在」は、同時です。この「われ」は身体を持ちません。ソフィーはまさにこの精神としての「われ」なのです。

 デカルトは、確実に存在するもの(真理)に到達するために、疑えるものをすべて疑います。そして到達したのが、疑うという行為を遂行している「われ」でした。すでに自分の身体も存在しないかもしれないと疑った後ですから、この「われ」は身体を持たない精神としての「われ」です。例え間違ったことを考えていても、考えている瞬間に考える「私」は存在する。ですから「ゆえに」は同時存在の「ゆえに」なのです。

 このデカルトの思想が心身二元論です。これはいろいろに批判されていますが、真理を意識の自明性に置いた点で、神学的世界観からの脱却(世俗化)の確かな地盤を与えました。私たちの常識は、「私」とは「身体的存在としての私」です。もちろんデカルトだって、自分の身体が存在しないと信じていた訳ではなく、疑おうと思えば疑えるでしょうと言ったわけです。こういう行為を「方法的懐疑」と言います。確実なものに到達するために方法とし、まずは疑えるものはすべて「疑う」ということです。

 この精神としての「私」は、世界を構成する主体、世界に居場所を持たない、世界から自由な存在です。ところで私たちが、「私って何なのだろう」と問う時、それは自分の居場所が不確定になっているから、あるいは居場所との違和感を感じるからではないでしょうか。その時、世界に居場所を持たない「私」の発見は、どういう意味を持つのでしょうか。

 しがらみや規則に縛られるとき、解放されたいと思います。しかし、しがらみも規則も、自分が受け入れるかどうかによってその効力を発揮すると気付くとき、確実だと思っていた足元が揺らぐ感じがします。それは解放であると同時に不安を呼び起こします。しがらみも規則も気持ち次第。もちろん、それらは現実に存在していますが、自分の気持ちをその拘束力から切り離すことは可能だと気づくとき、「私って誰?」という問いが切実さを帯びます。それは場所を失った「私」、浮遊する「私」と言っていいかもしれません。

 一般の人が求めているのは、絶対自由という意味の自由ではない、というようなことをバーリンが『二つの自由概念』の中で書いています。一般に人が求めるのは、承認されたいということではないかと。

 浮遊する私にとって、承認される場所というのは、現実に生きている私を感じられる場所なのでしょう。私探しとは、その意味で自分の居場所探しなのかもしれません。これは、おそらく幾つになっても、明確に意識するしないに関わらず、生きることの基本をなしている気がします。別の言い方をすれば、人は幾つになっても自分の居場所を求めて、新たな自分と出会えるということではないでしょうか。

 「私」というのはその意味で、場所(トポス)と一体化することで現実化する存在という気がします。内部へと問いを深めていけば、真の自分と出会えるというより、「場所」における現実の「私」を記述してゆく中で、「私」とその都度出会う。「『私』って誰?」への一つの答えがそこにある気がします。

介護施設と学校:近代施設における「管理」から

 デイ・サービスがいろいろな形で行われるようになっています。施設でのデイ・サービスは職員と利用者の織りなすサービス実践です。しかし、純粋に営利によるサービスではなく、介護保険制度が絡んでいます。利用者は端的にお客様、とは言いきれません。

 近代にたくさん作られた施設、工場や監獄、学校、病院などは、空間・時間そして身体の管理という原理によって貫かれています。空間の管理は分かり易いです。場所が区切られていますから。時間による管理に関しては、「遅刻」という概念の成立で理解できます。交通網の発達は、バラバラだった各都市間の時間の統一を意味します。鉄道の時間とは、大きな全国時計とも言えます。時間が統一されないと、鉄道は成り立ちません。近・現代は「時計化」する社会と言われています。「時間厳守」は近代人の規範となりました。

 工場が登場する前の資本主義社会以前(ほぼ農耕社会)では、時間は反復的に循環するものでした。反復するものなら、当然、経験の長い高齢者は尊敬の対象になります。しかし、資本主義社会では評価のベクトルは逆向きになります。なぜなら、資本主義社会は「投企」する、未来を企画する社会だからです。農耕社会におけるように、未来は循環して戻ってくるものではなく、「可能性」へ向けての挑戦になります。高齢者は出番を失います。

 ところで、そもそも学校の目的は何なのでしょうか。教育の場、とまずは言えます。かつては有用な国民の形成のためだったと思います。現代では、一人ひとりが社会に有用な存在となることで、各人が幸福になるための場、でしょうか。確かに、学校は、可能性に向けての準備期ではあります。しかし現状はどうか。「今の学校は、子どもの一時預かり所だ」と言った校長先生がいたそうです。

 介護施設は当然介護の場と言えます。介護とは何か。現在、介護は自立支援と言われています。本人の自己決定権を重視しなければならないと。しかし、自己決定権を言うのは、大変なことだと思います。本当に自己決定権を重視するなら、利用者本人や家族が、自分たちの望む施設や集まりを、話し合って作る必要があるのではないでしょうか。ただ、それが難しいのは分かります。

 問題の根っこに、学校も介護施設も、「地域社会で生きる」切実さから切り離されている、ということがある気がしてなりません。学校はまだ社会に出ていない準備期を、介護施設は社会から引退した時期を過ごす場所。今の社会は、これらの時期を社会のコアに組み込んでいません。社会のコアに組み込まれている時期とは、稼いでいる時期と言えるのではないでしょうか。市場経済社会に生きるとは、稼げること、稼げる時期をメインにしたライフスタイルを構成することになります。

 ところで、人間が生きているとは、社会的存在であるということだと思います。社会的存在である人間にとっての居場所とは、必要とされている場所でもあります。出来れば実践的に必要とされている場所、そういう居場所を人間は生きているかぎり探し続けるのではないでしょうか。

脳・こころ・身体

 昨今認知症にならないための生活術とか訓練法とかが、雑誌でよく特集されています。確かに人間にとって脳は重要だと、思います。しかし大切なのは「こころ」とも言われます。では「こころ」はどこにあるのでしょうか。こころは脳の機能なのでしょうか。そして身体は脳によって統御されているのでしょうか。

 脳とこころの関係について。酔っ払ったり、ドラッグを使ったりして、正常な精神状態を失うことがありますが、このときも脳は依然として機能しています。「こころ無い」と言われる行動をとってしまっているときにも、脳の基本的機能は働いています。感覚を入力して運動を出力する機能は、正常時そのままとはいかなくても、失われているわけではありません。

 逆に脳に障害が生じて、身体に麻痺が出ても、それが植物状態といわれる程重篤な状態になっていてさえ、その人に特有のこころの在り様は残っています。『あなたの声が聞きたいーー”植物人間”生還へのチャレンジ』(1992年放映、現在は植物人間とは言いません)では、身体が拘縮して声も出せない青年が、友人からのビデオメッセージに、声をあげて泣いていました。以下、小松美彦さんの『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書、2004年)から引用しておきます。

 「近年の日本の脳蘇生学では、植物状態を意識障害ではなく、『コミュニケーション障害』と捉える傾向がある。つまり植物状態の患者とは、意識や感覚は備わっているがそれを正確に伝えられない者、情報のインプットは可能だがアウトプットが不可能な者、と考えられているのである。

 対して脳死状態とは、大脳と小脳に加えて脳幹までもが機能停止した状態である。‥‥(筆者省略)‥‥ともあれ公式には、脳幹機能の有無との関係で、寿命がくるまで生きていけるのが植物状態、遠からず確実に死ぬとされているのが脳死状態である」(63頁)

 脳死・臓器移植の推進派の意見に、脳が機能停止したら人としては遅かれ早かれ機能停止する、ゆえに脳死を人の死とみなしてよいという見解があります。これは脳機能中心主義の考え方です。

 このような立場に対しては、1998年にアメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校の小児神経学教授アラン・シューモンが、批判的な研究論文を発表しています。そしてシューモンは、脳は身体の統合を生み出しているのではなく、既に存在している統合性を調節しているにすぎない、というような見解を出しています。

 脳に問題が生じることに、私たちの時代は過敏に反応しているのかもしれません。それはなぜか。脳が関わる分野が、過大評価されているからではないでしょうか。脳機能中心主義の考えも認知症への過度の恐れも、情報が重視される時代の影の部分に関わっている気がします。

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(株)日本原子力発電からの回答

 東海発電所東海第二発電所の状況報告会で出した質問表への回答をもらいました。

 「L3埋設廃棄物の埋設施設の底は、コンクリートで固められているかどうか」を質問しました。「核のゴミと私たち」(小出裕章氏講演会)でのアンケートに答えてくれた151名のほとんどの方が、放射能レベルが低くても厳重管理を希望していた旨書き添えました。

 これに対する回答は、トレンチ(素掘り)に処分する計画だということでした。L3埋設廃棄物は、金属類やコンクリートといった安定型産業廃棄物であるということが理由です。そして埋設地周辺は土壌が天然バリアになり、容易に放射性物質が施設外へ流出することはない。仮に流出して、周辺の海産物を摂取した場合でも法令で示されている基準値(10マイクロシーベルト)を十分下回っているからだそうです。

 またL3廃棄物は保全期間の目安である50年を過ぎれば、放射能は約10分の1に減衰。福島第一原子力発電所事故の指定廃棄物は、放射性物質以外にも有害物質が含まれていることからも、管理型の処分場になっているとのこと。

 そもそも流出してはまずいでしょう、と思います。たとえ基準値を十分下回っていたとしても。汚染物質はこれだけではないですよね。摂取も一回だけということで考えてもらっては困るし、基準値を下回った汚染物質が寄り集まれば、基準値を上回ってゆきます。それと子どもへの影響は、大人への影響とは比べ物にならないし。

 50年過ぎる前に大きな地震の可能性もあります。取りあえず、今出来る最善を尽くして欲しいです。例え費用がかかっても。中途半端に処理することは、やはり油断を生むと思います。まあ、何とかなるものよ、というような。大変なものを扱っているということを徹底して納得していかないと、ずさんな管理を生む気がします。

 法令遵守コンプライアンス)は最低限の「企業の社会的責任(CSR)」です。ステークホルダー(企業と何らかの利害関係を有する人々や団体)に、自然環境をも含める時代です。コンプライアンス以上を社是としない企業が、原発を扱うことはいかがなものでしょう。

h-miya@concerto.plala.or.jp