宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

山縣美季 ピアノリサイタル

 13日の穏やかな午後のひとときを、ピアノ演奏を聴きながら過ごしました。会場の木城館ホールも、佐川文庫の庭も、春の柔らかでどこか儚い美しさの佇まいです。演奏者の山縣美季さんは、物柔らかさのなかにも、はつらつとしたエネルギーを感じさせる方でした。

 プログラムを考え抜かれたようです。あまり馴染みのない曲で組み立てられていました。ラモーの「クラヴサン曲集と運指法第1番(第2組曲)❝鳥のさえずり❞」で始まりました。

 その後、プログラムについてのご自分の想いを述べられました。自分が何に力をもらっているのかと言えば、自然の美しさだったと気づいたそうです。空の青さ、風、海、四季の花、鳥の声等々。そういう自然を味わって欲しいとの想いで組み立てたプログラムだと話されました。

 美季さんのお名前、美しい季節、なんですよね。ミキという音を漢字にすると、美姫、美紀、美希、美貴、未希と沢山あります。名づけられた方の念いとのシンクロを思いました。

 リスト編集の「シューベルトによる12の歌より」では、ひばりの声や水、海の静けさ、春の想いなどを表現した曲が弾かれました。メシアン前奏曲集より❝風のなかの反映❞」は、ちょっと雰囲気が変わりました。オリヴィエ・メシアン神学者でもあり、鳥類学者でもあり、音と色の共感覚を持っていたそうです。共感覚の問題には、私も興味があります。音楽を絵で表現するとき、自分が受け取ったイメージではなく、音を色で表現できるかという問題です。メシアンは、ドビュッシーに傾倒していましたが、クラシック音楽の流れとしての現代音楽はドビュッシーに始まったと言われます。その後、フォーレの「舟歌第2番ト長調」とショパンの「舟歌嬰ヘ長調」で休憩に入りました。

 後半では、シューベルト「ピアノ・ソナタ第18番ト長調❝幻想❞」が弾かれました。ソナタって、複数楽章を持つ曲の形式かなと思っていましたが、器楽曲の事だと知りました。「カンタータ(歌唱されるもの)」との対比で使われたようです。「歌われる」のではなく「演奏されるもの(ソナーレ)」が語源だそうです。中期バロック(17世紀初めから18世紀半ば)の頃に形式が整い始め、今のような複数章の器楽曲や室内楽曲をさすようになりました。それでも、後期バロックに属するスカルラッティは単一楽章のソナタを残したようです。

 アンコールで弾かれたショパンノクターン12番と幻想ポロネーズは、聴き応えがありました。ショパンノクターンというと、2番か20番が日本では馴染みがあります。12番はあまり聴くことがないのですが、午後の遅い時間だけど、夜ではない時間には合っている感じがしました。2番も20番も当に夜想曲、っていう感じなので。

 幻想ポロネーズは、10分以上の曲。プログラム曲として演奏される曲だと思いました。ポロネーズポーランド風の意味です。マズルカと並んでポーランドのダンスあるいはその舞曲を意味します。マズルカが庶民のダンスだとすると、ポロネーズは宮廷ダンスです。もともとは貴族の行進から始まったようです。なるほど、ショパンポロネーズというと、幻想ポロネーズと並んで、英雄ポロネーズ軍隊ポロネーズが有名です。ショパンは、幻想ポロネーズを、ポロネーズとしてより幻想曲として作曲していたようです。

 山縣さんの、練り上げられたプログラムとエネルギー溢れる演奏を、堪能したコンサートでした。

            4月13日木城館ステージと庭

津軽三味線演奏会2024

 3日(水)13時半から、那珂湊コミュニティセンターで、津軽三味線の演奏を聴きました。弦悟郎の4人は、高校3年生、二人が中学3年生、そして、小学5年生になりました。2021年の3月、最初に演奏を聴いたとき、一番小さい子はまだ小学2年生で、演奏の時、椅子に座ると足が床に着きませんでした。

2021年3月31日(水)最初の回は5人が参加。

2022年3月30日(水)。もう段ボールは必要ありませんでした。

2022年3月30日の演奏では、立ち三味線で場所を移動しながら演奏。会場も乗り乗りでした。

2023年3月29日(水)。すっかり大人びてきました。

2024年4月3日。皆さん、次の世界に向けて≪take off≫の準備OK

はまぎくカフェからの巣立ちの時。参加者の皆さんからメッセージが贈られました。
 私たちも一杯楽しませてもらいました。津軽三味線を聴き、彼らの成長を感じ、エネルギーをもらいました。

 私たちの身体は縮んでいきますが、心は彼らと共に羽ばたいていきたい。次の世代の成長は、嬉しいもの。命が継承されていくことを感じることができます。それにしても時間が過ぎることのなんと速いこと。私たちは、何処へと繋がっていくのでしょうか。ふと、そういうことを考えます。

中野りなさんとルゥォ・ジャチンさんのコンサート

 久しぶりに、佐川文庫の木城館でのコンサートに行ってきました。いつ来ても、ほっとする空間です。

 今回は、2022年「第8回仙台国際音楽コンクール」のヴァイオリン部門優勝者とピアノ部門優勝者お二人の協演でした。ヴァイオリンが中野りなさん。ピアノは中国湖南省出身のルゥォ・ジャチンさん。

 この仙台国際音楽コンクールは、応募資格が27歳以下という、若手育成を目的としたものです。ヴァイオリンとピアノの2部門で、コンチェルト(協奏曲)を課題曲とします。このお二人がどうして組んで演奏することになったのだろうと、素朴な疑問が湧きました。その接点は誰だったんだろう、ということです。

 最初に演奏されたK.シマノフスキの『ヴァイオリンとピアノのための3つの詩曲❝神話❞』は、彼の代表作の一つで、中期印象主義時代の作品だそうです。ポーランドの作曲家シマノフスキは初めて聴きました。ヴァイオリンの擦れるような音が印象に残りました。印象主義音楽は、物語性や情動的表現を重視するのではなく、気分や雰囲気を表現することに重きを置いているそうです。ちょっと捉えどころのなさを感じました。

 パガニーニの『ロッシーニの❝タンクレディ❞のアリア』を、中野さんは譜面なしで、伸びやかに弾いていて素晴らしかったです。休憩の後にジャチンさんが弾いたショパンの『バラード第1番』と『スケルツォ第2番』。どちらも有名な曲で、私も大好きな曲です。熱の入った演奏でした。お二人からは、若さの持つエネルギーが伝わってきました。

 「仙台国際音楽コンクール」は2001年から3年毎に行われています。伊達政宗の仙台開府400年を記念して、「楽都仙台」を掲げて開催されるようになりました。その背景にあるのは、バブル景気で文化施設を増設し、バブル景気崩壊によって増大したホールや施設の活用が緊急の課題になったという事情です。

 1995年、世界3大音楽コンクールの一つである「チャイコフスキー国際コンクール」のジュニア部門「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」を誘致、開催しました。この経験をもとに、市主催の「仙台国際音楽コンクール」は開催されるようになったのです。現在、音楽イベントの持つ集客力で、仙台市にもたらされる経済効果に着目した施策が展開されるようになっています。

 第2回コンクールには、日本からだけでなく世界中から応募者があり300名(日本人が3分の2)に上りました。この時のバイオリン部門優勝者は日本人でしたが、ピアノ部門は中国人でした。第3回では、ヴァイオリン部門にロシア人、ピアノ部門日本人。

 2部門開催のため賞金総額が1600万円以上と、日本の国際コンクールの中で最も高く、各部門の入賞者の賞金も世界的に高い部類に入ります。

 今回演奏された中野りなさんもルゥォ・ジャチンさんも華々しい経歴を有される若手演奏者です。中野さんのヴァイオリンは、貸与されている1716年製ストラディバリウス。ジャチンさんは、現在、ニューイングランド音楽院でダン・タイ・ソンに師事しています。

 佐川文庫のコンサートホールは、若手演奏家に演奏の場を提供しています。音楽は人に聴いてもらうことで上達する、と言われます。朝ドラ『ブギウギ』の最終回を見ていて、歌手と聴衆の「交流の場」がよく表現されていました。歌手は聴いてくれている人から何かをもらいます。聴く側が楽しんだり、励まされたりはよく聞きますが、演奏する側も受け取っている。音楽は互いに倍々返し。

 クラシック音楽は敷居が高い、とよく聞きます。私も、クラシック音楽への取っ掛かりは難しいなぁと思います。でも、人間のやること。何を手掛かりにその世界に関心を持つかは、さまざまです。音楽そのものにいきなり入れる人は少ないのではないでしょうか。作曲家の人柄や、その曲が作られた時代背景や成立の物語り、演奏する人たちの思いや人間関係など、音楽を取り巻く物語りから入ることも出来ると思います。

 私自身は、仙台国際音楽コンクールの成り立ちを知ったことで、クラシック音楽が現実的な背景と結びついて、少し身近な感覚でコンサートに行くことができました。

               2024年3月30日 木城館ステージ

3月の花

 21日にお花を生けました。雪柳と黄色のラナンキュラス、そして存在感のあるブラックコンゴ。ブラックコンゴは、艶のある大ぶりの葉です。そのまま使うには、インパクトが強すぎる気がして、葉っぱに切れ目を入れました。

 

ミュージック・ケアを体験してみて

 13日(水)午後1時半から、しおかぜみなとの多目的室で、ミュージック・ケアを体験しました。円を作って座り、お互い同士を感じ合いながら、音楽に合わせて指運動をしたり、鈴を振ったり、鳴子を鳴らしたりしました。

 

 

 指導して下さった西野裕子さんは、石川県のミュージック・ケア協会(加佐ノ岬倶楽部音楽療法研究所)で指導者の資格を取られた方です。加佐ノ岬倶楽部は、加賀谷哲郎さんが1967年に設立した日本音楽療法協会から展開したものです。以下、尾崎祐司さんの「マイノリティへの教育から生成された加賀谷哲郎の音楽『療法』観――領域『自立活動』の目標と内容を反映した音楽教育――」(上越教育大学大学院学校教育研究科『音楽教育学第49-1』2019年)を参考にまとめました。

 1967年から1977年にかけて、音楽療法の分野では、リーダー的存在の研究者たちが次々と研究組織を立ち上げていたようです。加賀谷さんは、東京都の教員生活の中で、経済的貧困家庭、生活様式が異なる家庭、障害者という被抑圧性のあるマイノリティの学習群の問題と向き合いました。彼はもともと声楽家を目指していた人でした。教員免許を取得して、音楽教師としての道を歩み始めたのち、水上生活者、山谷の子どもたちの被抑圧性を、せめて音楽教育で和らげようと、教育活動を行いました。

 加賀谷さんは、マイノリティの立場にある子どもたちの学力格差が、「不信や否定の観念」の強さという情緒面の問題に起因する傾向が強いことを見て取り、「情緒の安定」の実現に教育的ニーズを見出して、「音楽教育」を模索し始めたそうです。

 加賀谷さんは「音楽を手段として教育治療的な考え方や方法」(1970年)を生み出し、それに仮に「音楽療法」と名づけました。加賀谷さんは、音楽療法は音楽教育とは目的を別にすると考えていました。彼の音楽療法では、音楽は手段でした。

 「音楽療法」という言葉は、1906年に山﨑恒吉さんが「Music Therapy」の訳として使ったものです。山崎さんは、西洋における医療の応用として音楽療法を紹介しました。音楽療法の言葉を使って、加賀谷さんは自分の教育治療的考え方を表現しました。そして、西洋の医療の応用分野としての「Music Therapy」を「音楽治療」(1979年)と呼び変えています。なぜなら、「Music Therapy」は医師の指示に従うもので、医師法に基づきますが、加賀谷さんが主張する音楽療法の目的には、教育的な意味合いが含まれているからです。

 加賀谷さんの「音楽療法」の考え方には、「心理的安定」「人間関係の形成」「コミュニケーション」能力の向上という「自立活動」の内容を音楽の学習に反映させる必要性が含まれていると、尾崎祐司さんは解釈しています。

 「自立活動」というのは、特別支援学校、特別支援学級、通級による指導の場に設けられた指導領域です。特別支援教育という言葉は、2001年(平成13)春から、特殊教育に変わって使われるようになりました。そして、2006年(平成18)6月に成立した改正学校教育法では、特殊学級特別支援学級に名称変更され、これまで支援の対象から外れていたLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、高機能自閉症などが対象に含まれるようになりました。

 特別支援教育を整備していく中で、自立活動の概念も形成され、学習指導要領に明記されて行きました。定型発達の子が、各教科などで培う「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「学びに向かう力・人間性」の3要素は、障害のある子の場合、「特別の指導」を必要とするという認識から実施される領域です。

 自立活動は6つに区分されます。➀健康の保持、②心理的な安定、③人間関係の形成、④環境の把握、⑤身体の動き、⑥コミュニケーション。尾崎さんは、この6区分と、加賀谷哲郎さんの「音楽療法」の効果とを比較対照して、関係づけています。

 加賀谷さんは「音楽療法」のねらいに、「音楽の特性をいかして、子どもの心身に快い刺激を与え、情緒の育成、さらに運動感覚機能の促進と知能の啓発を促し、子どもの心身の発育、発達に好ましい変化を与える」(加賀谷『音楽療法』1979年,26頁)ことを上げているそうです。

 以上から、加賀谷さんは、音楽が持つ力を「情緒の安定」だけでなく、情緒を育て、運動感覚や知能の発達にも変化を与え、好ましい人間関係の形成という教育的目的で使おうとしたと言えるでしょう。

 音楽療法ではなく、現在、ミュージック・ケアという言葉を使っているのは、加賀谷さんの以上のような考え方を生かそうとしているからかな、と思いました。現在では、ミュージック・ケアは、子どもだけでなく高齢者や障害をもつ人たち、不安を抱える人たちなど、すべての人がその人らしく生きるための音楽を使った援助活動、となっています。

「枝画」への誘い(第3章)から

 8日に柴沼清さんの「『枝画』への誘い(第3章)」を観てきました。丁寧な説明付きで、じっくり鑑賞。枝画という技法の可能性を、作者から説明され、3回目の今回、漸く少し分かってきた気がします。

 2次元のキャンバス絵画と彫刻が組み合わさっている感じがしました。枝が作り出す陰影の力。それはどこに作品を置くか、朝の光の中で見るか、夜の照明の下で見るか、どの位置から見るか、で色々な見え方が生み出されます。

 見る人のその時の状況まで加わると、作品の作り出す世界は変幻自在。どこまでも広がって深まって行きます。

   ひたちなか海浜鉄道のおさむ君とミニサムちゃん

 おさむ君は2019年に亡くなっていますが、作品では妹分のミニサムちゃんと今も生き続けています。

 

 柴沼作品の女性像はとても素敵です。今回は手足を強調して表現したそうです。以前の女性像も飾られていて、物思うような遠くを見るまなざしには惹きつけられるものがあります。

 今回印象に残った作品は、下の「魂を刻む:棟方志功」の造形姿勢でした。その一途な姿に引き込まれました。

 それと、今という時代を生きる者として見過ごせない世界情勢を表現する作品と、だからこそ未来への希望を託された女性の像が印象深かったです。

       「自由の拘束:反対派はテロリスト」

 下の作品「世界を繋ぐ:平和へのリング」と「平和への接点」は、ほっとさせられました。

 今という時代の問題は否応なしに訴えかけるものがあります。また、作品に没頭する中で実現されているフロー(Flow)状態が時代を超えて人の心を掴むことも実感しました。

 フローというのは、ミハイ・チクセントミハイの提唱したフロー理論です。完全に集中した状態や幸福を、彼は、フローと言っています。
 生きることは『ブギウギ』ではありませんが、しんどいことが沢山あります。芸術は、それらに敏感になりながら、私たちの心が潰れないためにあるのかもしれません。

 大人になると感覚がマヒしていきます。そうでないと生き切れないからでしょうか。でも、鈍感になりきることなく生き続けられるよう、現実に打ちのめされそうになる感覚を浄化してくれるのが、芸術なのかもしれません。そこからしか、本当の意味で「考える」ことは始まらないのだと、思います。

お雛様を生ける

 28日は風が強かったですが、日差しがあったので、部屋の中は暖かでした。この日は月に一回の生け花の日でした。今回は、お雛様がテーマ。スイトピーで男雛と女雛を作り、花畑の中に立てました。

 お雛様の原型は紙で作った一対の立ち雛だそうです。紙雛とも呼ばれました。雛人形には二つの流れがあります。一つは、身代わりの人形(ひとがた)。この人形に人間の汚れを移し、身代わりとして川や海に流して厄払いをします。「流しびな」はこの名残です。もう一つが、雛あそび(ひいな遊び)。これは、平安時代の貴族の子どもたちの間で盛んになされたおままごとです。人形の制作技術が向上すると、お雛様は立派になって、流すものから飾るものに変わって行ったようです。

 そして、江戸幕府が、桃の節句五節句の一つとして女の子の節句に決めることで、雛祭りが定着していったと言われます。節句とは、季節の変わり目の日です。邪気払いをしたり、体調を整えたりします。1月7日は人日の節句で、七草粥を食べます。3月3日は上巳の節句、桃の節句とも言われます。5月5日が端午の節句。菖蒲の節句とも言われ菖蒲湯に入ったりします。7月7日が七夕(しちせき)の節句、笹の節句とも言われます。9月9日が重陽節句。菊の節句で菊を浮かべた酒を楽しんだりしました。

 それぞれに意味があったわけですが、今は、何となく行事として楽しむくらいの感覚になっている気がします。

      スイトピー、ガーベラ、アリストメリア、桃、レースフラワー、ゴット

h-miya@concerto.plala.or.jp